福嶋亮大『神話が考える』

 宇野常寛ゼロ年代の想像力』、濱野智史アーキテクチャの生態系』と並ぶ、「ポスト東浩紀」、「ポスト宮台真司」的な本と言えるでしょうか。
 「神話」をキーワードにガンダムからライトノベル村上春樹、東方プロジェクトといった現代のさまざまなサブカルチャーを分析しようとしています。


 ただ、正直、著者の提唱する「神話」の理論、というより「神話」の概念があまりにも曖昧すぎると思う。
 宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』も理論的には穴だらけの本だったけど、今まで批評の対象になっていなかった連続ドラマなどを引っ張りだしてきたことは重要な功績だと思うし、何よりも「熱さ」があった。
 この『神話が考える』にはそういった「熱さ」のようなものはなく、一見『アーキテクチャの生態系』と同じような理論的な完成度に重きを置いた本にも見える。ところが、この本ではその肝心の理論というのがしっかりしていないと思うんですよね。


 例えば、第2章では『機動戦士ガンダム』や『スタートレック』が一種の「神話」として位置づけられ、その「神話」をもとに「神話」を語り直そうとする富野由悠季の『∀ガンダム』や、J・J・エイブラムズの映画『スタートレック』などが分析されます。
 第3章では村上春樹の引用する消費材が「神話素」として語られ、さらにその前身としてチャンドラーのハードボイルド小説が分析されます。
 第5章では2ちゃんねるニコニコ動画で多様される「www」、ルイス・キャロルの『アリス』における言葉遊びなどを分析し、その「ノンセンス」な言葉が一種の「神話素」であるとされます。
 それぞれの分析を読んでいる限り、それなりの面白さはあります。
 けれども、これだけさまざまなものに適用されてしまう「神話」や「神話素」とはいったい何なのでしょう?


 レヴィ=ストロースをきちんと読んでいないので、はっきりしたことは言えませんが、おそらくレヴィ=ストロース流の「神話」は、この本でも指摘されているように「ノンセンス」ではなく「コモンセンス」を引き出すものです。社会には「構造」があり、それが「神話」の埋め込まれているはずだからです。
 著者が2ちゃんねるなどで自然発生的に広がる「ノンセンス」なコピペに一種の「神話性」を感じるのはよくわかるのですが、これをやることで「神話」の概念はレヴィ=ストロース的な考えを離れ、拡散してしまいます。


 また、『ガンダム』を神話と捉えるのもありだとは思いますが、その「神話性」は富野由悠季による「宇宙世紀」、「モビルスーツ」、「ジオン公国」などの設定によっているのか、それとも一人歩きしはじめた「殴ったね!?親父にもぶたれたこと無いのに!」といったセリフなどにあるのか、あるいはファンの間での語られ方にあるのか、どうとでもとれる面があります。


 個人的な印象としては『ガンダム』というのは「神話」というより「偽史」として分析したほうがいいのではないでしょうか?
 福嶋亮大が以前よく使っていた「偽史的想像力」という言葉を象徴するのが『ガンダム』のような気がするのです。
 その点から、この本で福嶋亮大がなぜ「偽史的想像力」という言葉を捨ててしまったのかが謎です。せっかくの分析道具を捨てて「神話」というマジックワードに頼ってしまっているところが、この本の理論が混乱している原因でしょう。
 また別の視点で言うと、この本では「人間がコミュニケーションをする」という視点と、ルーマン流の「コミュニケーションがコミュニケーションをする」という考えが入り混じってしまっていて、理論がぼやけて閉まっていると思います。


神話が考える ネットワーク社会の文化論
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