斎藤環『博士の奇妙な成熟』

 思春期事例の治療は入口がいくつもあって、出口が一つしかない迷路のようなものだ。症状としての見かけは多様だが、目標となるのはほぼ一点、「成熟」の一語に尽きる。(4p)

 斎藤環が『こころの科学』に書いた文章を中心に編まれた評論集。
 引用した言葉は帯にも使われているものですが、前半はこの文章でも強調されている「成熟」をめぐるテーマのものが多いです。


 この本で引用されている精神科医T・S・サズの、「『大人』というのは、子供時代と老年期の間で、限りなく短縮しつづける期間だ。なぜなら近代社会とは、この期間を最小にすることを目的としているのだから」(15p)という言葉に表されるように、現代は「成熟」の意味が揺らぎ、「成熟」が困難になっている時代です。
 「成熟」が困難になった原因として、斎藤環はいくつかのことをあげますが、その一つに現代に置ける「視覚イメージの特権化」、「問題の表層化」とうものがあります。
 この「視覚イメージの特権化」、「問題の表層化」の傍証として、斎藤環は「赤面恐怖」→「自己臭症」→「醜形恐怖」とい思春期の対人恐怖症の症状の変遷をあげます。

醜形恐怖に至り、対人恐怖の葛藤のありようはいっそうの表層化をこうむった。ただし注意を促したいのは、それが必ずしも皮相化・浅薄化ということではない点である。「表情」ではなく「顔の形」に反映されるものは、もはや内面的な葛藤などではありえないだろう。ただ「自分が自分であること」ゆえに疎外されるという恐怖、それが醜形恐怖の中核をなすのではないだろうか。」(6p)


 このような、問題の表層化はいっそうの「成熟」の困難をもたらします。
 「成熟」の獲得に必要なものは「去勢」=「あきらめを知ること」ですが、現代のメディアの発達と、「視覚イメージの特権化」、「マニュアル化」の中で、以下に述べるようにそれは困難になっています。

 たとえば異性との恋愛というハードルを越えること。かつてはそれこそが成熟の契機となり得たはずだった。しかし問題は、異性という他者性までもが表層化をこうむってしまい、その結果恋愛が去勢の契機として機能しなくなりつつあることだ。いまや恋愛は、メディアを通じて大量消費される幻想を、模倣と反復によって男女間で共有することに過ぎないのではないか。そこにはもはや、いかなる他者性もありえず、去勢は無限に延期されるだろう。(12p)


 このような「成熟」の問題にからめて、「ひきこもり」や「ニート」、「パラサイト・シングル」、「追っかけ」などの様々な現象やサブカルチャーについて語ったのがこの本の前半。斎藤環の本を読んで来た者にとってはある程度おなじみの議論でもあります。
 そして「持続のために叱る、ということ」というちょっと毛色の変わった章を挟んで、後半はやや専門的な精神医学の話になります。
 

 「持続のために叱る、ということ」はなかなか興味深い内容で、教員など人と接する仕事をする人にとってヒントになることが詰まっています。
 「叱る」ことにおいて、「重要になるのは「演技」の発想である」(126p)と述べ、「叱り方」のポイントを述べていくわけですが、ルール違反があった直後に叱り、時間を置かないという「即時対応」の姿勢、事務的な対応方法など、下手に場をこじらせないための知恵が示されています。
 また、自殺企図者に対するカーンバーグの「君がもう一度自殺を試みたら、私は全力で君の回復のために尽力しよう。それは約束する。そして君が回復したら、別の治療者を紹介しよう」(134p)という、ある意味で究極的な言葉についてもとり上げられていて、「叱る」ということについて、かなり深いところまで考えられるようになっています。


 後半の精神医学的な章では、うつ病の急増についての「「心のカゼ」と操作主義」が面白いです。
 すべてがコントロール可能で、自己や自己の持つイメージのコントロールによって問題を解決しようとする「操作主義」、その「操作主義」と現代のうつ病の親和性が解説されています。
 

 斎藤環の本はかなり読んでいるのですが、まだまだ、得るところがたくさんありますね。


博士の奇妙な成熟 サブカルチャーと社会精神病理
斎藤 環
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