笠原嘉『妄想論』

 みすずのHeritageシリーズの1冊。もとは今から30年以上前の1978年に描かれた論文です。
 著者は「解説」で「わずか三十年前の記述なのに「何となじみのない話」と現代の読者は当惑されるのではないか」と書いています。確かにこの本でさかんに引用されているヤスパースやシュナイダーといった名前は最近の精神医学ではあまり参照されない名前なのかもしれませんし、笠原嘉の文章も、論文というスタイルもあるのかずいぶんと硬めです。
 ですから、本当は精神医学とはまったく無関係な僕のような者が読む本ではないのかもしれませんが、この本でとり上げられている妄想についてのさまざまな記述は非常に面白く、人間の心理について考えさせる材料に満ちています。


 例えば、父母を替え玉であると考え、実の両親は皇族であるとの妄想を抱き、主治医を本当の恋人の化身とする38歳独身女性の次のような出来事。

 あまりにも性的に露骨な内容にたじろいで病棟をそうそうに退却しかけた主治医はちょうど病棟のドアのところで追いかけてきた患者につかまり、ドアの敷居をはさんで病棟の内と外といった格好で、少時会話を続ける羽目になった。ますます執拗になる繰り返しに困惑した主治医は、とうとう彼女の妄想の荒唐無稽性をいつになく嘲笑的な言葉で強くなじった。その途端彼女は一瞬口ごもり、次いでおもむろに足下の敷居を指さし、ここから内側(病棟の側)なら自分のいうことを精神科医としてわかってくれてもよいではないかという意味の言葉を吐いた。一瞬前までの放恣さの片鱗だにないその冷静ないい口に主治医は二の句をつぎかねた。(188p)

 このケースについて、著者は妄想知覚や妄想気分が消えても、それにもとづいて系統化された妄想加工が残っているのではないか?と推定していますが、このように完全に妄想の世界に落ち込んでいなくても、人は時にはストレスから、時にはショックによって、時には統合失調症などの病気を乗り切るために妄想を生み出します。


 また、時に嫉妬がパラノイアを生み出し、妄想に発展することもあります。

 筆者らもまた、多くの研究者と同様に嫉妬パラノイアの中に権利回復revendicationの機制をみる。男女に限らず、彼らは「もしこの男(女)と結婚していなかったら、私にはもっと幸せがあったであろうに」、そして「私だけがすべての献身と損害を背負わされ、相手はのうのうと人生を楽しんできた」と思念する。このよく中年の夫婦を襲う裂け目感情を妄想へと高める決定因を残念ながら筆者は知らない。〜ただ筆者らは家族研究的知見を導入するとき、両者の背負う家庭史的な背景は想像以上に異質で、両家の歴史はいわばこの夫婦のうえで合戦をするかのごとくみえる。(158p)

 さらに、統合失調症の妄想主題は時代によって変化するが、うつ病のそれは時代を超えて代わらないというクランツの指摘(95p)、統合失調症者が資格に”弱い”との指摘なんかも興味深いですね。
 この本では、こうした妄想のさまざまなパターンと原因、予後などについて先行研究をまとめながら論じています。硬めの本なので万人向けではないですが、人間の心理の一端を知ることができる本です。


妄想論 〔精神医学重要文献シリーズ Heritage〕 (精神医学重要文献シリーズHeritage)
笠原 嘉
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