サーシャ・ソコロフ『馬鹿たちの学校』

 帯には「現代ロシア文学の伝説的名作」とありますが、確かにペレーヴィンやソローキンなどの現代ロシア文学の流れに続く雰囲気のある作品です。
 ソコロフは1943年生まれソ連の作家で、1970年代に本格的な創作活動を開始。しかし発表の場にはあまり恵まれず1975年にオーストリアに出国。その後、1977年にカナダ国籍を取得しています。
 このような作者のプロフィールを書くと、この作品にも社会主義への批判、ソ連の社会に対する告発のようなものを期待してしまうかもしれません。けれども、基本的には内容はかなりナンセンス。もちろん、そのナンセンスさにソ連社会への批判があるといえばそうなのですが、ある程度は単純にそのナンセンスさを楽しむべきでしょう。


 書き出しは「さて、でも何から始めたものかな、しかもどんな言葉で。何だっていいさ、こんなのはどうだ、そこ駅傍池では、ってのは。「駅傍」だって? いや、そりゃマズいよ、文体上間違っているもの。」(6p)という形で始まるのですが、第1章はほぼこんな形書き手と誰かの対話のような形式で進みます。
 けど、「対話」といってもそこに弁証法的な展開はなくて、ひたすら言葉が言葉を自動生成していくような感じ。社会学者のルーマンの言葉に「主体がコミュニケーションするのではなく、コミュニケーションがコミニュケーションするのだ」というような言葉があったと思いますが、まさにそんな印象。言葉が次々と言葉を産み出していきます。


 ところが第2章の「今となっては(ベランダで書かれたお話)は打って変わって無常観をたたえたエッセイのような印象。ナンセンスな話も多いのですが、語りはしっかりしていて、ナンセンス中にも情緒的な物が強く出ています。一番読みやすい部分と言えるでしょう。
 そして第3章以降は、いよいよタイトルの「馬鹿たちの学校」のお話。養護学校を舞台に、やや精神的に障害のある生徒や、教師、そして周囲の大人たちの様子が、これまた混乱して入り組んだ形で語られます。
 ここにはソ連の歪んだ官僚制的な社会の問題点なども垣間見えるのですが、同時に語りも歪んでいるので読者は「真実」のまわりをひたすらほっつき歩くような形になります。読み終えた後も、「結局、この小説の中では何が起こったんだ?」という感覚が残りますが、実際、ソ連のような社会では普通に生活していてもそんな感覚だったのかもしれませんし、今の日本だってそうなのかもしれません。人びとは「真実」の周りをほっつき歩くだけで、「真実」を確定させることは出来ないのかもしれません。
 そうした感覚がこの小説の特徴であり、ペレーヴィンなんかにも通じるものなんでしょうね。


馬鹿たちの学校
サーシャ・ソコロフ 東海 晃久
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