パオロ・バチガルピ『ねじまき少女』

 話題のSF。帯には「グレッグ・イーガンテッド・チャンを超えるリアルなビジョンを提示した新時代のエコSF」とあります。
 ただ、この言い方は間違っていると思います。確かに面白い小説であるのは確かですし、その未来の描き方にはわくわくドキドキするものがあるのですが、それはイーガンやチャンのような科学理論に基づいたものではなく、あくまでも著者の想像力が産み出したものです。
 海外のSF作品で通じるものがあるのはチャイナ・ミエヴィル『ペルディード・ストリート・ステーション』あたりだと感じましたし、それよりも世界設定で似た感触があるのは去年話題になった上田早夕里の『華竜の宮』
 現在の温暖化などの地球環境問題、アジアの台頭といった国際情勢から想像された未来社会の姿には非常に似たものがあると思います。


 近未来の世界では石油が枯渇し、温暖化によって世界の多くの都市が水没。さらに遺伝子操作の結果、農作物に様々な病気が流行し、病気に体制のある遺伝子組み換え農産物しか栽培することができず、世界は遺伝子組み換え作物の遺伝情報を持つ一部のカロリー企業によって支配されている。
 石油に代わって動力源となっているのは新型のゼンマイ(ねじまき)。そして、そのねじを巻くために、使われているのは遺伝子操作されたメゴドントという象の一種。また、街にはこれまた遺伝子操作で生み出されたチェシャ猫が空を徘徊し、日本では遺伝子操作によって新型の人間である「ねじまき」が作られ、兵士や女性秘書として使われている。
 環境破壊を防ぐために、バンコクの街では違法なメタンガスの使用などが環境省の白シャツ隊によって厳しく取り締まられており、一部の金持ちやエリートのみが石炭車を利用出来る。
 こんな世界が、この『ねじまき少女』の世界です。
 カロリー企業の暗躍などの有り得そうなシナリオから、有り得そうにないゼンマイ仕掛けのものなどの様々な要素が渾然一体となった世界観が、この小説の特徴であり魅力の一つとなっています。
 さすがに石油が枯渇したからと言って銃までゼンマイ銃になる必要はないと思うのですが、そういった細かいツッコミを受けたとしても、混沌として魅力的な世界がそこにはあります。


 このように現実的な未来予測とファンタジーが一体化した世界観は『華竜の宮』にも通じるものなんだけど、ただそこに描かれるドラマはずいぶん違う。
 表向きはバンコクで新型のゼンマイを研究する向上を経営しながら、タイに隠されている遺伝子情報を探っているカロリー企業の一員であるアンダーソン。その工場で働くイエローカードと呼ばれる中国系難民のホク・セン。環境省の白シャツ隊の隊長で「虎」と恐れられる元ムエタイのチャンピオン・ジェイディー。その副官でいつも無表情な女性のカニヤ。そして日本で作られてバンコクに”捨てられた”秘書兼愛玩用の”ねじまき”であるエミコ。
 こうした人物たちを通じて、タイに隠された遺伝子情報のゆくえ、そして政権内部の主導権争いの様子などが活写されるわけですが、『華竜の宮』との一番の違いは、これらの登場人物の中に「正義の人」がいないってこと。
 SFの王道として、「「正義の人」が世界の危機を救う」というものがあると思うのですが、この『ねじまき少女』の登場人物たちは、危機に瀕した世界の中でその世界を救おうというのではなくそれぞれの事情を抱えて必死に生きます。そうした個人の行動が関わり合いそれが大きな動乱へとつながるのですが、誰も事態を俯瞰して見れているわけではなく、それぞれは目の前の困難を何とかして生き抜こうとしていくだけです。
 だからこの本はSFファンだけでなく、そうした人間ドラマが好きなサスペンスのファンにもいけるのではないかと思います。

 
 あと特筆すべきはエミコの描写のエロさ。分量は多いわけではないですが、ポルノグラフィーといっていいほど踏み込んだ感じになっていますね。


ねじまき少女 上 (ハヤカワ文庫SF)
パオロ・バチガルピ 鈴木康士
4150118094


ねじまき少女 下 (ハヤカワ文庫SF)
パオロ・バチガルピ 鈴木康士
4150118108