ミゲル・シフーコ『イルストラード』

要するに、この国では作家なんて何の意味もない、ということなの。悲しい事実よね。(241p)

 「この国」とは、作者のミゲル・シフーコが生まれたフィリピン。
 確かに、普通の日本人にとってフィリピンの作家と言って思い浮かぶ人はいないかもしれません。ちょっと歴史をかじった人なら独立運動の闘士にして著述家でもあったホセ・リサールの名前が出てくるかもしれませんが、そんなところでしょう。
 だいたい、隣国と言っていい位置にありながらフィリピンのイメージというのは貧弱です。
 30代以上の人なら、マルコス大統領が退陣に追い込まれた「ピープル・パワー革命」、イメルダ夫人の1万足とも言われた靴といったイメージがあるかもしれませんし、女優のルビー・モレノとかを思い出す人もいるかも知れません。
 スペイン、アメリカ、日本の支配に抵抗した輝かしいピープルズ・パワーの歴史と、典型的なアジアの発展途上国のイメージ、フィリピンのイメージというとこの2つがバラバラにある感じです。
 実際、ASEAN諸国が経済成長を続ける中でも、なんとなく「発展途上国」のイメージを引きずっている印象があります。


 そんなフィリピンという国を、フィリピン人として、同時にフィリピンから米国に渡って文学を学び現在はカナダにすむインテリとして描いて見せたのがこの本。
 作者と全く同じ名前のミゲル・シフーコという人物が、フィリピンの国民的作家にしてニューヨークで謎の死を遂げたクリスピン・サルバドール(当然ながらこの「国民的作家」は作者のフィクションです)の死の真相と、失われた遺稿『燃える橋』の行方を追うというストーリーの中に「フィリピン」という国の栄光と悲惨を描こうとした作品です。
 

 小説自体は、シフーコによる探索の旅と関係者へのインタビュー、シフーコの過去、シフーコが書いている途中のクリスピンの伝記、クリスピンの自伝、クリスピンが書いた様々な作品、シフーコの行動を第三者的な視点で描いた断片、謎のフィリピン的な笑い話といったものから構成されていて、かなり複雑な構造。
 「消えた小説家を追う」というプロットは、同じ<エクス・リブリス>」シリーズのロベルト・ボラーニョ『野生の探偵たち』を思い起こさせますが、あちらよりも複雑でメタフィクション的な仕掛けがいやってほどしてあります。

 
 ただ、こんなふうに書くと「難しそう」と構えてしまうかもしれませんが、心配は無用。 基本的に面白くて笑える小説でもあります。
 「プロローグ」でフィリピンの国民的作家クリスピン・サルバドールの生涯とそのジャンルを越境しまくったような作品群が紹介されるのですが、このでっち上げの部分からクスクス来る。
 別にギャグを散りばめているわけではないんですが、フィリピンの「国民的作家」をでっち上げる記述が変なパロイディの集大成みたいで面白いんですよね。


 ボラーニョの『野生の探偵たち』では探求の旅の中で、追い求めている二人の詩人が「世界」の中に消えてしまうような不思議な感覚がありましたが、この『イルストラード』の旅は「わけいっても、わけいっても、フィリピン」といった感じ。
 至る所にフィリピンのどうしようもない政治や社会と、そして笑いが見出されます。
 

 また、本国を離れた知識人の優越感と劣等感の微妙なバランスを描いているのもこの小説の特徴。
 フィリピンを追われ亡命作家として活動したクリスピン、豊かな政治家の家に生まれ、そのお金でアメリカで文学を学んでいるシフーコ。二人はともに海外ではフィリピン人であることを強いられ、フィリピン社会ではどこか仲間に入れてもらえないような存在です。
 そんな役割をあえて引き受けたクリスピンと、そんなクリスピンに魅力を感じつつもフィリピンに対する軽蔑も合わせ持つシフーコ。クリスピンの死の謎を追う旅はシフーコが自らのルーツを辿る旅でもあります。


 そしてどんでん返しのラスト。
 ただ、なんとなく途中で予想できたラストでもあります。
 文学は成功さえすれば、「それで世界を変えることだってできる」(179p)のです。


イルストラード (エクス・リブリス)
ミゲル シフーコ 中野 学而
4560090165