宇野常寛『リトル・ピープルの時代』

 熱く、そして欲張りな本。
 村上春樹からウルトラマン仮面ライダー初音ミクまで、さらに補論ではダークナイトAKB48ガンダムまでとり上げている。それでいて、これらの対象をたんに自分の都合のいいようにちょこっと引用するだけでなく、真正面から論じている所に宇野常寛のエネルギーを感じます。
 もちろん、前作の『ゼロ年代の想像力』と同じく、その主張に全面的に賛成するわけではありませんし、理論的にも穴があると思います。
 ただ、それでもこれだけの厚さの本を読ませ、さらには僕自身まったく見たことがない平成仮面ラーダーシリーズを見たくさせる、筆力というか勢いがあります。


 タイトルの「リトル・ピープル」とは村上春樹の小説『1Q84』に出てくる謎の存在で、宇野常寛の説明では「現代のシステムの中に生きる私たちが、いつの間にか無自覚に、そして内発的に取り込まれている目に見えない「力」のようなもの」(54p)となっています。
 この「リトル・ピープル」は、『1Q84』のタイトルの元ネタとなっているオーウェルの『1984』に出て来る独裁者・「ビッグ・ブラザー」と対照的なものとして創られた言葉で、「大きな物語」が失効した後、つまり「ビッグ・ブラザー」が壊死したあとに、世界にはびこったシステムのようなものです。
 

 宇野常寛によると、村上春樹はこの「ビックブラザー」の死と「リトル・ピープル」の時代の到来をいち早く予言し、新しい想像力で持ってその変化を描いたが、「リトル・ピープル」の時代の「倫理」、あるいは「生き方」の構築には失敗したと評価します。
 1995年の阪神大震災オウム事件を機に、村上春樹の態度は「デタッチメント」から「コミットメント」へと変化します。小説の中でも「リトル・ピープル」の時代の新たな「暴力」あるいは「悪」に対抗しようとするのですが、その解決法は自らの手を汚さずに女性の力を使って「悪」を倒すことであったり(『ねじまき鳥クロニクル』におけるクミコや『1Q84』における暗殺者の青豆)、父になることであったり(「蜂蜜パイ」や『1Q84』)、「リトル・ピープル」の時代の「倫理」としては不適当であったり古いというのが宇野常寛の見立てです。
 (個人的にこの宇野常寛のまとめは粗すぎると思ってて、『1Q84』や『蜂蜜パイ』において、村上春樹が単純な生物学上の「父」になることを選んでいるんじゃなくて、「他人の父」になっていることが重要なんじゃないかな?と思う。)


 この村上春樹の限界について、宇野常寛は次のようにまとめています。

 私たちは誰もが、老いも若きも男も女も、ただそこに存在してるだけで決定者、すなわち小さな「父」として不可避に「機能してしまう」。貨幣と情報を通じて自動的に世界にコミットしてしまうのだ。リトル・ピープルの時代を生きる私たちは、生まれ落ちたその瞬間から小さな「父」なのだ。
 「父」になることはもはや達成ではない。私たちは否応なく「父」にされてしまうのであり、あとはこの不可避な条件にいかに対応するか、とういう問題だけが残されている。父性の回復は、既に自動的に達成されたおのであり、それはもはや想像力の仕事ではない。よって、「父」になることをロマンチックな自己実現として描いてしまったところに、村上春樹の躓きは存在する。(137ー138p)


 このように宇野常寛村上春樹が「リトル・ピープル」時代の到来を的確に捉えながらも、その処方箋については失敗したとします。
 ではその処方箋はどこにあるのか?宇野常寛によると大きなヒントを与えてくれるのが「平成仮面ライダー」シリーズです。
 もともとウルトラマンのような外部から来た超越的なヒーローではなく、敵組織の内部から生まれたヒーローの仮面ライダーは、2000年の「仮面ライダークウガ」以降、制作者の思い入れやグッズを売らなければいけないという制作環境から独自のそしてラディカルな進化を遂げます。
 そのラディカルさに関しては、ぜひこの本を読んで確認して欲しいのですが、精神的外傷を持ち「覚醒」を夢見る超能力者とそうしたアイデンティティ的不安を持たない一般人を対比的に描いた「アギト」、13人の仮面ライダーが登場し殺しあうという「龍騎」、「夢」をもたないニート的な若者がオルフェノクと呼ばれる人類の亜種として描かれ、そのオルフェルクと一般人の若者たちの交流が描かれる「555」、モンスターに憑依されることで変身し多重人格的な性格を持つ「電王」など、これらの番組を見ていないものからすると、「果たしてこれが子供向け番組なのか?」と思うほど、アクロバティックなことがなされています。
 

 日本のロボットアニメでは、主人公の少年が父(あるいはそれにあたる人物)からロボット(精神分析的に言えば「ペニス」)を授けられ、それに乗り込んで「悪」と戦い「正義」を執行し大人になるというパターンがありました。
 つまり、「正義」と「主人公の成長」がこうしたアニメの2つの柱だったわけです。
 もっともこのパターンはだんだん単純には行かなくなり、正しいはずの父が狂ってたり(ガンダム)、無茶苦茶だったり(エヴァンゲリオン)、あるいは「正義」というものがよくわからなくなってきます。
 こうした「正義」の問題、「主人公の成長」の問題に正面からぶつかり、幾つかの解答を示してみせたというのが宇野常寛の「平成仮面ライダー」シリーズへの評価です。
 この「平成仮面ライダー」を論じた所がこの本の一番のおもしろいところでしょう。


 最後の第3章では、この世界に嫌でもコミットメントしてしまう「リトル・ピープル」の時代において、想像力によってそのシステムを塗り替えていくという「拡張現実」の可能性が示されます。
 ここはそれほど目新しい議論がされているわけではなく、まだまだ議論も粗いのですが、同じ「キャラ」を論じるにしても、東浩紀があくまでも「虚構」の中での「キャラ」に注目するに対して、宇野常寛は現実世界とつながった「キャラ」、例えばクドカンのドラマの登場人物やAKB48に注目しており、あくあまでも「現実」の一部を「虚構化」する部分にこだわっています。
 この現実世界での生活にこだわりながら、その一部を拡張現実的な想像力によって塗り替えていく、それがこの本で宇野常寛の提出した「リトル・ピープルの時代」の一つの処方箋です。
 


 というわけで中身を紹介しましたが、宇野常寛への疑問を1点だけ。
 宇野常寛は補論「AKB48ーキャラクター消費の永久機関」でAKB48について肯定的に紹介しています。確かにAKB48における、「キャラ」のつくりかた、その消費のされ方というのは現実と虚構の入り交じったもので、まさに「拡張現実」的な想像力の産物と言えるかもしれません。また、彼女たちの歌う「いま・ここ」を肯定する歌というのも時代にあったものかもしれません。
 ただ、AKB48は興味深い文化形態であると同時に「資本の論理」によって動いているものでもあります。AKB48というのは今までのアイドルや時代に対する批評的なものであると同時に、今、大きなブームを引き起こしている「商品」でもあります。つまり、AKB48にコミットするということは、そうした「資本の論理」にコミットすることでもあります。
 別に「だから駄目だ」といいわけではありませんが、この「資本の論理」にコミットするのが嫌だったから、村上春樹はデタッチメントという態度を取り、作中の人物にも一種のダンディズムをもたせることでこの「資本の論理」から距離をおこうとし、そして実際に「バブル」を乗り切ったのではないでしょうか?
 現在の日本において「資本主義のシステム」から逃れることはできませんが、だからといってそれに無批判にコミットしてしまっては「バブル」のような状況をつくり出しかねません(もちろん「バブルの何が悪い!」という態度もあるでしょう)。
 この「資本へのコミットメント」をきとんと議論の中に入れていかないと、村上春樹のことも完全には捉え切れないし、「リトル・ピープルの時代」の処方箋も完成しないのではないでしょうか?


リトル・ピープルの時代
宇野 常寛
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