ジョージ・A・アカロフ、レイチェル・E・クラントン『アイデンティティ経済学』

 著者のアカロフと言うと、この本と同じく山形浩生によって訳された『アニマルスピリット』が非常に面白かったですが、そのアカロフが「アイデンティティ」という考えを経済学に取り込もうとしたのがこの本。
 近年の経済学において、人間が必ずしも経済学が想定するような合理的な行動をしないことがクローズアップされています。『アニマルスピリット』では人間の判断に影響をおよぼすものとして「安心」、「公平さ」、「腐敗と背信」、「貨幣錯覚」、「物語」の5つの要因があげられていましたが、この本ではタイトル通りに「アイデンティティ」が俎上に載せられています。


 例えば、単純な経済学では労働者により多くの成功報酬を約束すれば労働者は熱心に働き、成功報酬がなければ熱心に働かないということになっています。目の前にニンジンがぶら下げられていれば頑張るし、そうでなければサボるというわけです。
 しかし、現実の労働者はこんな単純に動くものではありません。金銭的なインセンティブが働かないということはありませんが、多額の成功報酬を約束すれば労働者が際限なく頑張るというものではないでしょう。
 そこでこの本で持ちだされるのがインサイダー、アウトサイダーという区別です。
 インサイダーは企業と自身の利益を同一視するタイプ。アウトサイダーは企業と自身を重ねあわせないタイプです。インサイダーは企業の業績が傾けば自身のアイデンティティに傷がつきます。つまりインサイダーにとっては、頑張らずに手を抜くことはアイデンティティの効用を失うことにつながるのです。
 一方、アウトサイダーは彼らはわずかな頑張りで済ませること理想とし、賃金以上に働くことを馬鹿らしく思っています。 
 日本だとインサイダーを正社員、アウトサイダー派遣社員やバイトなどと考えるといいでしょう。


 「なぜ高い賃金を払って正社員を確保するのか?」、「なぜ企業は入社式などを行うのか?」、「なぜ企業は従業員のために様々な福利厚生を行うのか?」
 答えは、労働者をインサイダーにするためであり、さらに言うと企業の従業員であることにアイデンティティをもたせる為です。
 この本ではアメリカ企業におけるさまざまな取組が紹介されていますが、この点については日本のほうがずっと熱心に行われていることでしょうね。日本の企業文化を知るものからすると、ある意味で当たり前のことです。


 そう、この本はある意味で「当たり前」のことが書かれている本です。
 特に社会学の本をある程度読んだことがある人なら、この本で紹介されているゴフマンの考えや、ポール・E・ ウィリス『ハマータウンの野郎ども』を思い出して、「そんなの社会学ではとっくに言ってるよ!」と思うかもしれません。
 実際、僕もそれほど目新しい感じはしなかったのですが、ただ特定の事象の記述にとどまりがちな社会学と違って、より一般的な理論化を目指す姿勢というのは強く感じました。まだまだ、理論化へ向けた第一歩という段階ですが、このような「非合理」な人間の行為を経済学が扱うようになってくると、ひょっとすると社会学は徐々に経済学に吸収されていってしまうのかもしれません。
 そういった意味で社会科学に興味のある人は目を通しておいてもいいんじゃないかと思います。


 あと、この本では差別が差別されている人々のアイデンティティに影響を与え、マイナスの結果をもたらしてしまう次のような事例が紹介されています。

 クロード・スティールとジョシュア・アロンソンはスタンフォード大学の学部生を使って古典的に実験を行った。黒人学生と白人学生に対して、GRE(大学院進学適性試験)の難しい問題を与えた。一部の被験者は事前に、試験結果はかれらの能力評価に使われると告げられた(訳注:その人が属する白人または黒人のカテゴリーの能力評価、という意味だと思われる)。対照群の学生はそんなことは言われなかった。そうしたメッセージを与えられた黒人学生の成績は、白人や、メッセージを与えられなかった黒人学生よりも有意に低かった。スティールとアロンソンは、その学生たちは人種にかかわるステレオタイプに影響されたのであり、成績の低さは「ステレオタイプ」の脅威と呼ばれるもののせいだと論じた。(43ー44p)

 
 これ以外にもこの本ではインドのカーストの例がとり上げられていますが、この差別がその集団に属する人の劣等感を育ててある種のアイデンティティを形成してしまうというのは非常に大きな問題だと思います。
 そして、ここから「人権」や「平等」といった言葉を通らずに差別を批判する方法が開けてくると思います。


アイデンティティ経済学
ジョージ・A・アカロフ、レイチェル・E・クラントン 山形浩生、守岡桜
4492314148