村上春樹『国境の南、太陽の西』

 先日読んだ宇野常寛『リトル・ピープルの時代』で、「村上春樹が「蜂蜜パイ」や『1Q84』で見せた、『父になる』という形のデタッチメントからコミットメントへのやり方は安易だ」という批判を読んで、「例外的に主人公が普通に父親になっている『国境の南、太陽の西』はどうなんだ?」と思って読んでみました。


 小説は、青山で2軒のジャズバーを経営しながら妻も二人の子どももいるという成功した主人公のハジメの前に、12歳の時に特別な友情を育んだ島本さんが現れて、主人公は何もかも捨てて島本さんを選ぼうとするが、結果的に「ここではないどこか(太陽の西)」はない、ということに気づくという極めてオーソドックスな小説。
 島本さんとの第一回目の謎に満ちた再会とか、ハジメが傷つけてしまったイズミのその後とか、いかにも村上春樹的な謎めいたところはあるし、主人公の若い頃の描写とか、ジャズバーだとか水泳だとか言うのはいかにも村上春樹的。


 ただ、他の村上春樹の長編小説に比べると全体から受ける印象は大きく違う。
 例えば、村上春樹の小説は1984年前後のバブルの直前を舞台にしたものが多いけど(『ねじまき鳥クロニクル』の設定も1984年)、この『国境の南、太陽の西』はバブルに突入したあとの時代が描かれ、バブルに対する嫌悪感が描かれている。
 この小説の中で、主人公は建設会社を経営する義父から「絶対儲かる」株を勧められ、それを激しく拒絶しています。一方で、主人公が経営するジャズバーの開店資金は義父から出ており、また主人公は義父の裏金作りにも名義を貸すなど、バブルに半分くらい参加しているような状況です。
 つまり、この小説では完全なデタッチメントは達成されておらず、デタッチメントとコミットメントが半々といった形になっています。
 いわばこの小説は、「村上春樹が小説家にならず、日本社会に対して完全なデタッチメントを貫けなかったら?」という問への答えなのかもしれません。


 そしてこの本にはエルサレム賞の「壁と卵」のスピーチの中ででてきた「システム」という言葉に触れた部分もあります。

 義父の言わんとすることは僕にはよくわかった。彼の言うやり方というのは、彼がこれまでに築き上げてきたシステムのことなのだ。有効な情報を呑み込み、人的ネットワークの根を張り、投資し、収益をあげるためのタフで複雑なシステムのことだ。収益された金はときには様々な法律や、税金の網を巧妙にくぐり抜け、あるいは名前も変え、かたちを変えて、増殖していく。彼はそういうシステムの存在を僕に教えようとしているのだ。(97ー98p) 

 
 まあ、抜群に面白いというわけではないですし、島本さんの正体についてももうちょっと書いてほしいと思いましたが、村上春樹を考える上でやはり読んでおいていい本だと思います。


国境の南、太陽の西 (講談社文庫)
村上 春樹
4062630869