辻村深月『水底フェスタ』

自然を切り崩し、ロックフェスを誘致する以外に取柄もない山村。狭い日常に苛立つ高校生の広海は、村出身の女優・由貴美と出会い、囚われてゆくが、彼女が戻ってきたのは「村への復讐のため」。半信半疑のまま手伝う広海だが、由貴美にはもう1つ真の目的があった。そしてフェスの夜、取り返しのつかない事件が2人を襲い――。

 というのが発行元の文藝春秋のホームページに書かれたこの本の紹介。
 フジロックをモデルとしているらしいロックフェスで地元の村に住む主人公の高校生の広海は、村出身で東京でモデルとなった織場由貴美と出会う。
 男子高校生と年上の芸能人クラスの美貌の女性、これは主人公が惚れちゃうのは仕方のないわけで、そこから主人公の広海は由貴美の企てる「村への復讐」へと引き込まれていくことになります。由貴美はいわゆる「ファム・ファタール(運命の女)」なわけです。
 

 本の帯には「辻村深月が描く一生に一度の恋」とのキャッチフレーズもありますが、恋愛物としては物足りない。男子高校生と元モデルでは力の差がありすぎて、由貴美がファム・ファタールぶりを発揮するまでもなく簡単に落ちちゃうわけです。しかも、由貴美はけっっこう早々と「弱い部分」を見せてしまうので、「一生に一度の恋」というわりには恋愛物としては盛り上がりません。


 なのでこの本の読みどころは、そうした恋愛を封じ込めて窒息させてしまう「ムラの閉鎖性」を描いた部分。
 舞台となる睦ッ代村の閉鎖性は小説の冒頭から描かれているわけですが、小説を読み進めていくにつれ、さらに想像以上の村の閉鎖性が描かれています。もちろん睦ッ代村は架空の村ですし、「フェスだけでそんなに経済的に村がうまくいくのか?」とかいう疑問もあるのですが、ここで描かれる村長選挙のエピソードや家々の間の関係とかはある程度リアリティが感じられるもので、引きこまれます。
 また、そうした「ムラの閉鎖性」を支えるものとして「卑小な母」を持ちだしてくるのも辻村深月ならでは。
 この「卑小な母」というのは『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』でも遺憾なく描かれていましたが、辻村深月は本当に容赦なくこの「卑小な母」というのを描き出します。
 男性作家だと母親を悪く描こうとすると「グレート・マザー」的な巨大な存在になりがちですが、辻村深月はあくまでもそれを卑小なものとして描きだします。けれども、「卑小」だからといって力がないわけではありません。その「卑小な価値観」こそが子どもたちを縛り付け、ムラを維持しているのです。

 
 ラストで広海と由貴美の関係をうまくまとめられなかった(衝撃的な事実を出しておいて後で撤回するというのはあんまりよくないと思う)部分もありますし、伏線の張り方が甘い部分もあると思うのですが、男性作家とはまた違った視点で「日本のムラ村」をえぐってみせた小説です。


水底フェスタ
辻村 深月
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