「ある教育の帰結」〜中井久夫『「思春期を考える」ことについて』より

 ちくま学芸文庫の「中井久夫コレクション」シリーズは、今までもこのシリーズに関してはさんざん「いい!」と書いてきたわけですが、この『「思春期を考える」ことについて』もとても刺激を受ける1冊。特に教育関係者にはぜひ読んでもらいたい1冊です。
 精神医学の本を読み慣れていない人にはせめて「ある教育の帰結」だけでも読んで欲しい。


 「ある教育の帰結」は、1960年代後半、おそらく愛知県と思われる県で管理主義教育が強化された結果生み出された悲劇を綴った文章です。
 ある女子生徒が小学4年生ころ、学校では日教組が劇的に打倒され学校ではさまざまな小テストをはじめとするテストが盛んに行われるようになりました。教員の緊張感は少女にも伝わり、何かに追われるように少女は勉強に精を出します。彼女は優等生で成績はクラスで主席か悪くても3番以内。しかし、もう一人のライバルの女の子とは違って、彼女の勉強というのは「教科書がそのまま頭の中に引っ越してくるような勉強」でした。
 いわゆる要領の悪い子でもあるのですが、中井久夫が次のように指摘する通り、日本の学校や教員はこういった子を評価しがちです。

 日本の社会は要領のよさや天才児的な飛躍よりも、「こつこつ地道にやる」子を見込みがあるとする。それどころか道徳的にすぐれているとする。いくら勉強が出来ても「こつこつ地道にやらない」子は、将来の危ぶまれる、いかがわしい子だとされる。(56p)


 結局、この少女は中学入学とともに親友と別れ、そして思春期の到来と共に、ある「好きでも何でもない」男子の存在が頭から離れなくなり、パニックを起こして闘病生活に入ります。
 闘病生活の内実については詳しく書かれてはいませんが、その中で中井久夫を安全とさせたというのは次のようなやりとり。

 大学で何を勉強したい?という質問に対して彼女は言ったのである。「私はほんとうは勉強が好きじゃない。好きな学問なんてない。もし、掃除のおばさんが一番えらいということに社会で決まっていたら、私は一所懸命努力して掃除のおばさんになるでしょう」と。(62p)


 中井久夫は「彼女の病気を教育のせいにするつもりではない」(62p)と断った上で、現代において、勉強が満足のためではなく「安全保障感確保」のために行われているといいます。
 「安全保障感確保」とは自らの安全が脅かされたときに、その恐怖をできるだけ遠ざけようとする行動であり、恐怖に対する防衛作戦です。
 中井久夫は勉強がこのような状態になってしまった状況を次のように説明しています。

 ここで、教育において次第に「生命行動」「満足追求行動」の比重が少なくなり、「死回避行動」「安全保障感追求行動」になりつつあることを強調したい。
 もう一つ強調したいのは、それが当の学生生徒にとってだけでなく、父兄にとっても、教育者にとってもそうなっていることである。
 「入試に失敗したら大変である」「席次が下がったら大変である」「この子が大学に入れなかったら大変である」「自分の生徒の進学率とその内容が下がったら自分にも自分のいる学校にとっても大変であり、自分の将来にも関わってくる」。これらはすべて、「死回避行動」を思わせる恐怖である。それは強い動機になり激しく持続性の行動を起こさせる。しかし、その果てに、感情のこもった喜びはない。それは次第に人間の心を枯らしてくる。教育全体が単色化してくる。(64ー65p)


 しかし、これは戦後の日本が選びとってきた道であり、戦後釈迦に住む多くの人がはまっている罠でもあります。
 「せめて大学には…」という親の気持は大学の増加をもたらし、大学の増加に従って学歴の価値はインフレが起こったように下落します。けれども、だからこそある種の恐怖にかられて人びとは学歴を求め、教育について「死回避行動」をとるようになるのです。
 それを踏まえて中井久夫は現在の発達期の問題点について以下のように述べています。

 発達期は、現在の課題に応答しながら別に成長のための分をとっておかねばならない時期である。その分まで食い込むとは、それは成人になる資本(もとで)をつぶしていることになる。
 どこまでが資本か、それを決めることはむずかしい、冒頭にあげた少女の場合は不幸にも明らかに限界線をはるかに超えているといえよう。しかし、この少女を他人事と思える人は、今日ではかなり幸福な種族である。(69p)


 もちろん、少子化が進んで受験競争がゆるみ、さらには「ゆとり教育」が標榜され表向き管理教育が退潮した現在、中井久夫が紹介する少女の例や、その時代診断はやや大げさに感じられるかもしれません。学歴に関しても、以前にくらべれば親も子どもの意識も自由になったように感じられます。
 ただ、それでも日本の教育が一種の「死回避行動」に支配されているというのは事実ではないでしょうか?
 だいたいからして政治家の教育に対する提言にしろ、企業やマスコミからの「ゆとり教育」批判にしても、「このままの教育では日本はグローバルな社会で生き残ってはいけない」といった、あからさまに「死回避行動」を思わせる言い草になっています。
 また、「こつこつ地道にやる」子を道徳的に優れているという考えには、教員、そして社会自体がどっぷりとはまったままなのではないでしょうか?
 

 この本に収められた、この「ある教育の帰結」、そして「思春期における精神病および類似状態」、「思春期患者とその治療者」、「精神科医からみた学校精神衛生」、「「思春期を考える」ことについて」といった論文は、今なお教育や思春期を考える上で広く読まれるべきものだと思います。


中井久夫コレクション3 「思春期を考える」ことについて (ちくま学芸文庫)
中井 久夫
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