サルバドール・プラセンシア『紙の民』

 この『紙の民』について、越川芳明はブログの中で「僕は高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』を連想していた」と書いていて、それが『さようなら、ギャングたち』を国内の小説No.1として評価している僕の背中を押して、税抜3400円というこの高い本を買わせたわけですが、確かにこれは傑作。
 まさに高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』に通じる前衛さと感傷的な部分を併せ持つ小説ですし、およそ僕が小説に求めるものをすべて満たしていました。
 太宰治は『もの思う葦』の中の「晩年に就いて」という文章で、小説に関して「やさしくて、かなしくて、おかしくて、気高くて、他に何が要るのでしょう」と述べていますが、まさにこの『紙の民』は「やさしくて、かなしくて、おかしくて、気高く」ある小説。
 で、さらに太宰治にはなかった大胆でメタフィクション的な構成まで持っているんだから面白くないはずがありません。

 
 まずAmazonに載っている本の内容紹介は以下のようになっています。

2010年、アメリカの文芸誌が選んだ「世界で最も独創的な作家50人」に、トマス・ピンチョン村上春樹らとともに名を連ねたメキシコ出身の作家サルバドール・プラセンシアによる傑作デビュー長篇。
小説は、一見メキシコ移民の物語として始まる。妻に捨てられたフェデリコ・デ・ラ・フェは、悲しみを抱えながら一人娘を連れて国境を越え、ロサンゼルス郊外の町エルモンテに落ち着く。ある日、自分たちを上空から眺めている〈土星〉=作者サルバドール・プラセンシアの存在に気づいた彼は、他の移民たちと団結して、自由意志を守るために〈土星〉を相手取って戦いを始めるが......。
土星〉が見下ろす世界には、「紙の民」の末裔メルセド・デ・パペル、メキシコの伝説的プロレスラーにして聖人のサントス、メキシコ生まれという設定のリタ・ヘイワース、史上初の折り紙外科医など、虚実入り混じるさまざまな登場人物がひしめき合う。彼らの「声」や「意識」を再現したテクストの自由奔放なレイアウトと飽くなき実験性、作者自身を取り込む語りというメタフィクション的仕掛けが交錯し、唯一無二の世界を作り上げている。「これだけ奇妙奇天烈で、これだけ悲しく、これだけ笑える小説が他にあったら教えてほしい」(柴田元幸氏)

 個人的には、紹介では土星=作者ということ伏せておいたほうがいいんじゃないかとも思いますが、まあそれはいいでしょう。
 この紹介からもわかるように、この小説は作者と小説の中の登場人物たちが戦争を始めるという、かなりアクロバティックな内容になってます。
 そのためにページは3段に分けられ、作者〈土星〉の描く世界と、それに対抗しようとする登場人物の思いが平行して語られるという複雑な構成になっています。
 赤ちゃんの予言者ベビー・ノストラダムスは心を隠す能力を持っているため彼の部分は真っ黒に塗りつぶされたりしていますし、後半になれば〈土星〉に対する登場人物たちの蜂起が成功し、小説のページは大変なことになっています。
 ディレイニーの『ダールグレン』でもかなり複雑な段組が行われていましたが、この『紙の民』はさらに複雑な段組で、普通の小説よりもひと回り大きな判型になっているのも納得です。


 ただ、この小説の面白さの本質というのはそういったポストモダン的とも言っていいようなメタフィクション的な部分だけにあるのではなく、何といってもその詩的とも言える文章が優れている点にあります。
 アメリカ文学ならば連想するのはブローティガン、あるいは『インディアナ、インディアナ』レアード・ハントいったところ。そしてこれらの作家や高橋源一郎なんかに通じる「やさしくて」「かなしい」物語がこの小説の至る所で展開されています。
 それは冒頭の殺された猫をよみがえらせるために折り紙で猫の心臓から血管までを折り上げてみせたアントニオと、かれが折り上げた「紙の民」の誕生の部分からそうですし、小説の主人公と言えるフェデリコ・デ・ラ・フェの失恋と戦いの物語もそうです。


 ここでは、最後にメキシコの英雄的レスラーのサントスとタイガーマスクが戦い、そしてサントスが敗れた部分を引用しておきます。

 サントスの死が明らかになると、サトル・サヤマは片膝をつき、かつてのパートナーに最後の敬意を表した。その出来事に居合わせたただ一人の写真家は、その瞬間を記録せずにいた。群衆は静まり返り、野次を飛ばすレタス収穫労働者でさえも押し黙った。積もっていく埃と、漂うタバコの煙がなければ、西経一一七度、北緯三二度に位置する世界の一画は、完全に静止していたことだろう。(92p)


紙の民
サルバドール プラセンシア 藤井 光
4560081514