高橋源一郎『恋する原発』

 「制御棒挿入」、「燃料棒」「メルトダウン」、「炉心溶融」、「核燃料の露出」
 こう並べると原発事故の用語が何か性的なものに見えてきませんか?
 おそらく、この『恋する原発』の着想はそういったところになったのでしょう。
 『あ・だ・る・と』で、アダルトビデオの世界を描いた高橋源一郎は、この着想からAV監督の主人公が会社の会長や社長に命じられて東日本大震災チャリティーAV「恋する原発」を作るハメになるというところからこの小説をスタートさせます。


 最初は、まず震災後の真面目なことしか許されないようなムードに対して、不謹慎なAVによるチャリティーという「笑い」をぶつけて、小説の自由な展開を確保する戦略かと思いました。
 とにかく冒頭のチャリティーAVのオープニングを描いた部分は爆笑モノで、「原発」という言葉に少し身構えていた読者も、ここでリラックス(または呆れる)ことでしょう。
 高橋源一郎は『あ・だ・る・と』で一度描いたことのあるAV業界の話を踏み台にして、そこから自由に物語を展開していくのかと思いました。


 ところが、この『恋する原発』はほぼ最後まですべてアダルトビデオの話。
 原発から靖国からオバマ大統領まで、この小説にはいろいろなものが登場します。ただ、途中で挿入される評論の「震災文学論」を除けば、すべてがAVに関連付けられて、というかAVのマクラのような形で扱われています。
 

 「じゃあ、『あ・だ・る・と』と同じじゃないか」と思う人もいるでしょうが、高橋源一郎の「アダルトビデオ業界探訪記」といった趣の強かった『あ・だ・る・と』に比べると、この『恋する原発』は、アダルトビデオに政治的な要素を読み込む、あるいはアダルトビデオという場所に政治的批判の立ち位置を確保しようとする小説になっています。

 人間の欲望が駆動する科学、その科学の生み出した怪物とも言える原発
 しかし、だからこそ原発や科学のシステムを単純に批判することは、人間の欲望を批判することにつながります。
 いわゆるエコロジストや、今回の原発事故を人間の欲望に対する罰として捉える人はそれでいいのかもしれません。けれどもそんな「真面目」な道徳主義のようなものが正しいのか?人間の欲望を簡単に否定してしまっていいものか?といった考えから、もっとも原始的とも言える欲望である「性欲」のためだけにつくられているアダルトビデオを、原発批判の足場にしようしているのがこの『恋する原発』なんだと思います。


 アダルトビデオというのは「すごいくだらないというすごさ」というものを見せてくれるメディアです。
 その「すごさ」を苦笑しつつも受け入れるか、あるいは下品すぎるといって拒絶するかでこの小説の好き嫌いは決まるでしょう。ダメな人はダメだと思います。
 けれども、個人的にはこの『恋する原発』には、ここ最近の高橋源一郎の小説にはなかった勢いと力強さ、そして政治性を感じますし、途中に挿入されている「震災文学論」も読み応えがあります。


 ただ、やはりこの「震災文学論」を小説に落とし込めなかったのがこの小説の欠点だと思う。
 「震災文学論」で「死」や「死者」をめぐるかなり重いテーマが展開された後だと、最終章の「ウィー・アー・ザ・ワールド」はどうしても感傷的で安っぽいものに思えてしまう。
 ということで最後の最後で少し失速してしまっていると思います。
 けれども、個人的に全編を通して爆笑できたということはここに記しておきたいと思います。


恋する原発
高橋 源一郎
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