宇野常寛・濱野智史『希望論』

 批評家と宇野常寛と情報社会論を得意とする濱野智史が、震災後にこれからの2010年代を見据えて語った対談。
 タイトルの「希望論」については、宇野常寛は反対したそうで、この対談の締めで次のように述べています。

 僕は、希望という言葉そのものに「こんな世の中だからこそ希望が必要」というニュアンスが入ってしまうことには抵抗したいんです。「こんな世の中」ではないんですよ。むしろ希望自体は満ち溢れているのに、それを活かせていない日本社会のシステムがダメだという話です。(210p)

 そしてこれはこの対談の基本的な考えを示している言葉でもあります。
 二人は現在の日本の政治や経済が行き詰まっている現状を認めつつも、それを打ち破る可能性が日本のネットやサブカルチャーにはあると主張しています。それは例えば、ソーシャルメディアであったりゲーミフィケーションであったり初音ミクであったりAKB48であったりします。


 二人のうち濱野智史の主張というのは非常に明快。
 今までの日本のネットに関する議論では、2ちゃんねるのような匿名的なコミュニケーションから脱して個人がネットの中で自分を表現していく主張(梅田望夫的考え)がなされてきたが、むしろ2ちゃんねるニコニコ動画などの匿名的なコミュニケーション(ひろゆき的な考え)にこそ日本のネットの可能性があるのではないか?というもの。
 そしてそこで持ち出されるのが初音ミクのようなバーチャルなキャラクターを押し出したつながりであったり、ゲームによって社会参加などを促すゲーミフィケーションの考え。
 具体的なアイディアこそ違いますが、匿名的なコミュニケーションを政治や社会変革の場に活かそうという考えは東浩紀の『一般意志2.0』と共通しています。思想的なバックグラウンに関しては当然東浩紀の議論のほうが分厚いですが、具体的なアイディアに関してはより多くのものが提出されていると思います。


 一方、宇野常寛の主張は個々の話はわかりやすいものの、全体としてまとめようとするとなかなか難しい。
 基本的な路線は「ソーシャルメディアの役割を高く評価する宮台真司」のような感じで(この本にも書いてある通り宮台真司ソーシャルメディアをそれほど評価していない)、宮台真司の本を読んできた人にとっては既視感を覚えるような主張も多く見られます。
 ただ、一方で「僕は吉本派的な転向団塊世代の現状肯定的な感覚が嫌いになれないんですよ。僕は一言でいうと、それこそ糸井重里から、中沢新一、あるいは村上春樹内田樹まで、彼らがどこか共通して持っているこの世界の「内部」に「潜る」という感覚に可能性を感じるのです」(134p)と述べたりもしてます。このあたりはおそらく宮台真司にはない感覚で、このさまざまな思想的な立場が一人の人間の中でごっちゃになっているというのが宇野常寛の特徴なのかもしれません。
 だからこそ彼の著作は、「部分は明快で面白いけど、全体としては論理的にきれいに一貫していない」という印象があるわけですが、逆にそこに既存の思想とは違う新しい何かが生まれる可能性があるのかもしれません。


希望論―2010年代の文化と社会 (NHKブックス No.1171)
宇野 常寛 濱野 智史
4140911719