斎藤環『世界が土曜の夜の夢なら』

 サブタイトルは「ヤンキーと精神分析」。
 斎藤環がいまや日本文化の一翼を担うと言っても過言ではない「ヤンキー」について分析した本。斎藤環が「オタク」について分析した『戦闘美少女の精神分析』は、ラカン派の用語を押し立てたアクロバティックな分析だったのに対して、こちらは特にラカンの用語とかがわかっていなくても読めますし、ある意味で理解しやすいと思います。
 ただ、最終的には『古事記』や伊勢神宮丸山眞男の「歴史意識の『古層』」、そして天皇制まで射程に収めようという野心作でもあります。


 この本の出だしは「天皇とヤンキー」。天皇陛下即位十年を祝う式典で奉祝曲を演奏したYOSHIKI、そして即位二十年の式典で奉祝曲を披露したEXILE。学校などの体制に反発していると見られているヤンキーは、実は保守的でもあり、なぜか日本の「伝統」と短絡的に結びつきます。
 このヤンキーの「保守性」と「大和魂」的な「伝統」とのつながりを明らかにしようとしている点が、今まであったヤンキー論からこの本が一歩踏み込んでいるところだと思います(例えば、新書ブログで紹介した難波功士『ヤンキー進化論』も面白い本でしたが、このあたりの部分には踏み込んでいませんでした)。
 

 そして、そのことについての斎藤環の結論は「あとがき」の中で次のように書かれています。

 本書の最終章を仕上げつつ、とりわけ橋下徹の分析を通じて痛感したことは、ヤンキー文化が実質的に、日本社会における反社会性の解毒装置として機能している、という事実についてだった。
 わが国においては、思春期に芽生えかけた反社会性のほとんどは、ヤンキー文化に吸収される。不良が徒党を組むさいに求心力を持つのは、「ガチで気合の入った」「ハンパなく筋を通す」「喧嘩上等」といった価値規範なのだ。しかしこれが擬似倫理的な美学であり、丸山眞男の言うところの空虚な「いきほひ」の変形でしかないことは、本書で十分に検証してきた。
 こうした美学は、特攻服やよさこいソーランのような様式性をへて、フェイクの伝統主義=ナショナリズムに帰着する。つまり、青少年の反社会性は、芽生えた瞬間にヤンキー文化に回収され、一定の様式化を経て、絆と仲間と「伝統」を大切にする保守として成熟してゆくのである。われわれは、まったく無自覚なうちに、かくも巧妙な治安システムを手にしていたのである。(250p)


 このような「反社会性」が一種の「社会性」に回収されるという現象は、他の国のブルカラーの文化などでも起こっていることかもしれません。
 この本ではそうした他の国での「反社会性」とヤンキー文化の差異として母性原理があげられています。
 「男の世界」という印象が強いヤンキー文化ですが仔細に見てみると、「関係性」や「家族」を大事にするという「女性性」的な側面が見られ、またヤンキー的な人物の多くは自分の母親を非常に大切にしています。「父」と対立して、「父」を乗り越えるといった欧米では定番のストーリーがあまり見られないのです。
 そうしたスタイルについて、斎藤環橋下徹を分析しながら「厳格的でありながら包摂的な母親」(243p)と述べています。
 「父性」や「母性」といったものがどれくらいはっきりと分けられるのか、またその内容にどれくらい普遍性があるのか、といった問題はありますが、「厳格的でありながら包摂的な母親」というものは、ヤンキー的な有り様、あるいは今の日本の「世論」の気分といったものを表しているような気がします(例えば、生活保護バッシングでも単純な「切り捨て」ではなく、現物支給とか使い道の監視とか、そういったある意味で「包摂的」な意見が目立つように思う)。


 まあ、こんなふうに書いていくと難しい本に思えますが、同時に単純に楽しめる本でもあります。
 白洲次郎やスサノヲを「ヤンキー」と呼ぶセンスにはなるほどと思いますし、この本で紹介されている高橋歩なる人物の「BELIEVE YOUR トリハダ。鳥肌は嘘をつかない。」って「名言」に唖然とさせられたり、面白いところが満載です。
 

 『古事記』や伊勢神宮、あるいは天皇制といったものは、けっこうなんでも飲み込んで説明してしまうものなので、単純にヤンキー文化と結びつくのではなく、日本のあらゆる文化と結びついてしまうのでは?という疑問も残りますが、一つの文化論として面白い本です。


世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析
斎藤 環
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