W・G・ゼーバルト『アウステルリッツ』

 評判の高い本ですが、未読だったので新訳が出たのを機に読んでみました。
 確かにこれは間違い無くいい本。ただ、どんな本なのかを説明するのは難しい。
 まず、「アウステルリッツ」というタイトル。当然、「アウステルリッツの戦い」から来ていて、その地名からいろいろなイメージや記憶が動き出すのかと思ったら、「アウステルリッツ」は人の名前。
 この本は主人公がベルギーのアントワープで出会ったアウステルリッツという謎の男性と出会うところから始まり、そしてその男が訪ね歩くヨーロッパの駅舎、要塞、図書館などに関するアウステルリッツの講義のような話と、アウステルリッツ自身の出生の秘密についての話で出来上がっています。
 アウステルリッツの講義だけを見れば、この本は建築や歴史に関するエッセイのようにも思えますし、アウステルリッツの生い立ちや出生の秘密の部分を見れば優れた小説です。
 

 そしてこの本には沢山の印象的な写真が載っています。ヨーロッパの様々な街の写真、建物の天井の写真、さらにはアウステルリッツの過去の写真。
 そこで、読み手は混乱するわけです。街や建物の写真は本物だとしても、このアウステルリッツの過去の写真というのは一体何なのか?と。
 アウステルリッツアントワープやロンドン、パリ、プラハニュルンベルク、そしてユダヤ人が強制収容所へと送り出される場所となったテレージエンシュタットについて語ります。
 それはまさにヨーロッパの歴史、特に近代以降の負の歴史であり、消すことのできない歴史の汚点でもあります。
 ですから、そこに載っている写真というものはそうして歴史についての一種の証拠として提示されてもおかしくないものです。
 

 ところが、この本での写真の使われかたは少し違います。
 ある意味で非常に主観的な写真が多く、「歴史の証言」といった印象はあまりありません。
 何よりアウステルリッツの過去の写真というものがあります。アウステルリッツはあくまでも想像上の人物であり、アウステルリッツの過去の写真というものは著者のゼーバルトがどこかから探してきてでっち上げたものです。
 アウステルリッツという人物には何人かのモデルがいるとのことなのですが、ゼーバルトチェコユダヤ人の母のもとに生まれ、5歳でウェールズへ渡りほんとうの名前を失ったアウステルリッツという人物を通してヨーロッパの近代の負の歴史を描きつつ、同時に架空の人物であるアウステルリッツの人生を描き出します。
 つまり、歴史を語りつつ、一種の「偽史」を語ってもいるわけです。


 この本にはおそらく、歴史を語るとともに「語り直したい」という欲望があって、それがこの小説ともエッセイともいい入れない不思議な散文をつくり上げているのです。
 最後にそういった欲望を感じさせる印象的な部分を引用しておきます。

 そしてつい最近までわが国の取り残され忘れ去られた地域は、〈時の外にある〉とされてきました、けれどもロンドンのような時間が支配する巨大都市にあってすら、今もって〈時の外にある〉ものはあるのです。死者は時の外にいます。瀕死の人も、自宅や病院で床に臥すおびただしい病人もそうです。彼らだけではありません。身に積もる不幸がある量に達すれば、それによってその人間の過去のすべて、未来のすべてから断ち切られることがありうる。げんに、とアウステルリッツは語った、私は時計というものを持ったことがありません。振り子時計も目覚まし時計も懐中時計も、ましてや腕時計など論外です。時計というものは、私にとってただもう馬鹿らしいものでしかなかった。どこからどこまで嘘としか思えなかった。おそらくそれは、私自身にも判然としない衝動から、私が時間の力に逆らいつづけ、いわゆる時代の出来事に心を閉ざしてきたからなのでしょう。今にして思えば、とアウステルリッツは語った、私は時間が過ぎなければよい、過ぎなければよかった、と願っていたのです、時間を遡って時のはじまる前までいけたらいいのに、すべてがかつてあったとおりならいいのに、と。もっと正確に言うなら、私はあらゆる刹那が同時に併存してほしいと願っていました、歴史に語られることは真実なんかではなく、出来事はまだ起こっておらず、私たちがそれを考えた瞬間にはじめて起こるものであってほしい。もちろんそうなれば、永遠の悲惨と果てのない苦痛という、絶望的な側面も口を開けてしまうのですが。(98ー99p)


改訳 アウステルリッツ (ゼーバルト・コレクション)
W G ゼーバルト 鈴木 仁子
456002734X