赤坂真理『東京プリズン』

 女性誌について分析しながら、そこを突き抜けて、「戦争」、「アメリカ」、「敗戦の記憶」といったものにまで、現代の男女がおかれた状況の遠因をたどろうとした新書『モテたい理由』
 非常に面白く読んだと同時に、それまでまったく関心のなかった赤坂真理に興味を持ちました。
 そんな赤坂真理が、「戦争」、「アメリカ」、「敗戦の記憶」、そして「東京裁判」に真正面から取り組んだ小説を書いたというので珍しく日本の作家の本をハードカバーで買って読んでみました。
 というわけで期待はすごくあったのですが、個人的には小説としてはいまいち。「戦争」、「アメリカ」、「敗戦の記憶」、「東京裁判」といったものを余りにも「そのまま」に捉えてしまっていると思います。


 アメリカの東海岸の北の端のメイン州、そこハイスクールに留学した16歳のマリは「アメリカ」を体験しながら、「アメリカン・ガヴァメント」の授業の中で、東京裁判についてのディベートをすることになります。日本人のマリは「昭和天皇には戦争責任がある」という立場で、「昭和天皇に戦争責任はない」との立場に立つアメリカの高校生と意見を戦わせることになるのです。
 そしてその少女時代のマリの話に、アメリカに行く前の家の記憶、現在の作家になったマリ(つまり赤坂真理のこと)と母の関係、3.11の東日本大震災などがからみ、物語は複雑に展開します。


 このメインとなるディベートの部分のアイディアはいいと思うのですが、そこにいたる「日本」や「アメリカ」のイメージが手垢のついたもので小説としては貧困。
 確かに敗戦後の日本の「屈折」というものはわかりにくいもので、例えば、江藤淳加藤典洋といった批評家は、そういったものをかなりひねったかたちの批評で何とか表現しようとしていました。
 その言葉にならない感覚を、赤坂真理は女性の「身体性」を使って表現しようとしているのですが、こうなると出てきてしまうのが岸田秀の「ペリー来航によって日本はアメリカに強姦された」っていうあの手の話。


 出だしから、マリが男子たちと鹿のハンティングに行って銃が出てきて帰りにレイプされかけるという展開。
 あまりにも単純に岸田秀的な世界観をなぞってしまっている感じなんですよね。
 マリと母親の現在の関係については斎藤環『母は娘の人生を支配する』をなぞっている感じがしますし(もっとも斎藤環の「母娘論」は鋭くて面白いと思いますが)、全体的に著者の感心した理論があまりにストレートに描写に繋がってしまっているような気がします。
 

 精神分析が20世紀以降の小説に深みを与えた部分はあると思いますが、例えば、あまりにあからさまにエディプス・コンプレックスの図式に従って小説が描かれたりすると逆に興冷めしてしまいます。
 この小説の欠点というのはおそらくそういう部分。著者の戦後の日本に対する疑問、米に対する違和感といったものは共感できるのですが、それがあまりにもわかりやすい図式と比喩によって描かれてしまっていると思います(その点、村上春樹は単純な精神分析の理論を下敷きにしつつ、それをうまく描いてみせる。「品川猿」なんかはまさしく精神分析の理論を下敷きにしているけど、高校時代の自殺した後輩と不思議な猿を経由することによって単純な図式だけに還元されないものを描いている。)。


東京プリズン
赤坂 真理
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