リチャード・ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』

 やはり読んでおくべきだろうと思って読んでみました。
 近年の哲学の中では珍しく「明解」な本。しかも、かなり大きな話をしています。
 ニーチェハイデガーの影響を色濃く受ける大陸の哲学と、それとはまったく別のかたちで言語の問題を中心に営まれてきた英米分析哲学アメリカの哲学者であるローティは、分析哲学の一つの成果であるデイヴィドソンの言語論(ローティの依拠するデイヴィドソン言語哲学に関してはこのエントリーを参照)から出発して大陸系の哲学を横断し、自らの価値に沿ってヨーロッパの哲学の歴史をたどり、そして今まで哲学が占めていた位置に文学と評論を入れ、なおかつ政治的な立ち位置まで示します。 
 この本は大陸系の哲学と分析哲学の統合の試みであると言えますし、さらには今まで哲学への挑戦の本とも言えるでしょう。


 というわけで、かなり大きな話を扱っている本なのですが、ポイントとなるのは「リベラル」と「アイロニー」あるいは「アイロニスト」という言葉。
 その言葉を説明する前に、とりあえずその違いをわかりやすく書いてある部分を引用します。

 ミシェル・フーコーはリベラルになるのをいやがるアイロニストであるのに対し、ユルゲン・ハーバーマスはアイロニストになるのをいやがるリベラルである。(130p)

 ローティの整理によるとフーコーはアイロニストでハーバーマスはリベラルです。
 ローティは「自分にとって最も重要な信念や欲求の偶然性に直面する類の人物」(5p)を「アイロニスト」と名づけ、「残酷さこそ私たちがなしうる最悪なことだと考える人びとが、リベラルである」(5p)と述べています。
 そしてローティ自らの立ち位置である「リベラル・アイロニスト」の戦略を次のように説明しています。

 本書で示される妥協は、結局のところ以下のように言い表わせる。つまり、本物であることと純粋であることを求めるニーチェサルトルフーコー的な企てを、残酷さを避けること以上に重要な社会的目標があるなどと考えさせてしまう政治的態度に転化することがないよう、私事化せよ、という示唆に。(136p)


 ニーチェフーコーは、近代社会の道徳や制度が真理や正義に基づくものではなく、歴史的な系譜の中でつくり上げられてきたものだということを明らかにしてきました。この点についてはローティも同意しています。
 しかし、ニーチェフーコーはその歴史の中で人間の持つ本源的な何かが抑圧さられてきたと考え、そうした抑圧からの解放をどこかで夢見ています。一方、ローティはこの抑圧をそれほど重要なものとは認めません。人間へのある種の抑圧があったとしても、それとともに人間社会から残酷さが減少しているのならば、その抑圧は割に合うと考えているのです。


 一方、ハーバーマスは近代社会の獲得したものを基本的には評価しています。「残酷さを避ける」という価値観が望ましいという点でもハーバーマスとローティは一致するでしょう。
 ところが、ローティによるとハーバーマスは「歪みなきコミュニケーションのプロセスが収斂する」(139p)と考えています。これに対して、ローティはそうした「収斂」を信じていません。


 基本的にこのローティの戦略というのは妥当な気がします。ニーチェフーコーのラインはどうしても「美的な生き方」のようなものを追求していしまいがちですが、それは私的な領域に留められるべきだというローティの考えはよくわかります。


 けれども、そういった考えを導くときにローティがデイヴィドソンの「墓碑銘のすてきな乱れ」という論文の中の「言語などというものは存在しない」という考えから、「詩人の言葉にこそ現代の真理がある」みたいな考えに行くのには個人的には大きな違和感があります。
 確かに詩人は新しい言葉の使い方を示すことによって人びとの言語についての可能性を広げます。詩人の言葉の使用が、今までにはなかった意味を切り開くということもあるでしょう。
 ただ、デイヴィドソンはそういったことが普段の日常会話や、たんなる言い間違いの中でも行われているということを示したのではないでしょうか?
 デイヴィドソンによれば、人びとが詩人の新しい言葉の使い方を理解できるのは、詩人が天才だからではなく、人びとが言語を理解する「当座理論」を持っていてそれを適切に使用するからです。そして他者を理解するためには他者もまた一定の合理的な信念を持っていると仮定せざるを得ません。「寛大さはわれわれに強いられている」(デイヴィドソン『真理と解釈』(210p)のです。
 
 
 ローティもデイヴィドソンを読み込んでいる哲学者なので、これはたんなる素人の違和感にすぎないんですけど、おそらくデイヴィドソンの言語論から引き出しているものが、デイヴィドソンの重視する「理性」や「合理性」ではなく、詩人の「想像力」だというところが、何かこの本の戦略には落とし穴があるのではないか考えるところです。
 おそらく、それは最後の部分で打ち出される、「想像力によって拡大される「われわれ」の連帯」といった考えへの危惧にもつながるのでしょうが、それはまたいつかきちんと考えてみたいと思います。


偶然性・アイロニー・連帯―リベラル・ユートピアの可能性
リチャード ローティ Richard Rorty
4000004492


真理と解釈
ドナルド・デイヴィドソン 野本 和幸
4326100907


真理・言語・歴史 (現代哲学への招待Great Works)
ドナルド・デイヴィドソン 柏端 達也
4393323254