村上春樹『1Q84』

 文庫になった+夏休みということでようやく読んでみました。
 浅間山荘事件を思わせる「あけぼの」の銃撃戦、そしてその「あけぼの」と袂を分かった新興宗教「さきがけ」。その「さきがけ」は山梨県に本拠地があってインテリ層も集める新興宗教で…ってなると想起するのは当然オウム真理教
 というわけで、村上春樹がついにフィクションでオウムにチャレンジ!ってことで期待も高まるわけですが、個人的にはその期待に関しては期待はずれ。
 とりあえずBOOK2まで読み終わったときは、『羊をめぐる冒険』を読んだ時のガッカリ感を思い出しました。今読めば少し印象も違うのかもしれませんが、『羊をめぐる冒険』は出だしのワクワク感と後半の尻すぼみ感が印象に残っています。


 『1Q84』は、DVの加害者を密かに始末する女性の殺し屋・青豆と、予備校講師で「さきがけ」の秘密が描かれているという『空気さなぎ』という小説のゴーストライターを務める・天吾という二人の主人公がいて、それぞれの視点から物語が交互に語られるのですが、とにかく天吾のパートの話が進まない。
 村上春樹の男の主人公になにか能動的なアクションを期待するのは間違っているのかもしれませんが、青豆が「さきがけ」の教祖の暗殺という大仕事をするのに対して、天吾は『空気さなぎ』の原作者である女子校生のふかえりとセックスするだけ。物語が停滞する原因だと思います。


 ただ、一方で天吾の父親がNHKの集金人で、その父親について描く部分はうまい。
 市川真人芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったのか』について書いた新書ブログで、村上春樹と父親都の関係に関して「村上春樹にとっての「恥ずかしい父」は「アメリカに負けた父」ではなく、「中国を侵略した父」であり、だからこそ村上春樹は「アメリカの影」からは自由であった。けれども、「恥ずかしい父」の問題は「父」を描かないことで指し示し続けられた」と書きましたが、この『1Q84』はまさにその父親の変奏だと思いました。
 戦後、日本では戦前・戦中には絶対的な存在だった「国家」の力が弱まり、安全保障をアメリカに依存するある意味で「不完全な国家」になりました。その「不完全な国家」を表すものが、このNHKの集金人なんだと思います。
 NHKの集金人は、個人情報を握り、人びとから受信料を徴収しようとしますが、強引に部屋に入ったり、受信料の支払いを拒否する人間を逮捕することはできません。「赤紙」のような強制力はなく、人びとに「お願い」あるいは「脅迫」するのみです。それでも、受信料の支払いを求めてドアをノックし続ける姿には、「国家」の残り滓のようなものがあります。
 そして、その父親は亡くなりNHKの制服を着て火葬されます。さすがに軍服を着るわけにはいかないのでNHKの制服を着るわけです。
 天吾は最終的に父と和解するわけではありませんが、実の父かどうかわからない父と折り合いをつけます。古い世代、古い「国家」はここにおとなしく退場します。


 けれども「国家」に代わる新しい権力は描けているかというと、それはない。
 宇野常寛は「リトル・ピープル」を「現代のシステムの中に生きる私たちが、いつの間にか無自覚に、そして内発的に取り込まれている目に見えない「力」のようなもの」(『リトル・ピープルの時代』54p)と捉えていましたが、この小説の中では基本的にオカルト的な存在で終わってしまっていると思います。
 最後の牛河の死の部分では、少し現代のシステムとリトル・ピープルの絡みがあるのですが、そこはほのめかされているだけで終わってしまっている感じです。


 そしてこの小説、BOOK3まで読むと『国境の南、太陽の西』との類似性を感じさせます。
 天吾と青豆の物語は、小学生の時以来のラブロマンスに回収されるわけですが、子どもの頃の「運命の人」に出会うのって、まさに『国境の南、太陽の西』のストーリーですよね。
 しかも主人公が父親になるというのも同じ。村上春樹の主人公が父親になるのは、この両長編と短編の「蜂蜜パイ」くらいですよね。
 ただ、この『1Q84』で天吾はなろうと思って父親になっているわけではなく、ある意味で『国境の南、太陽の西』よりも後退している。しかもバブルを描いた『国境の南、太陽の西』に対して、『1Q84』はバブル以前の1984年で終わっているわけですし、そのあたりもやや物足りないです。
 全体的に面白いといえば面白いのですが、あと一歩物足りない感じが残りました。


1Q84 BOOK1〈4月‐6月〉前編 (新潮文庫)
村上 春樹
4101001596