北岡伸一『官僚制としての日本陸軍』

 政治学者にして一時期は日本の国連代表部次席大使も努めた北岡伸一による昭和期の日本陸軍についての本。最近の活動からすると「なぜ日本陸軍?」と思う人もいるかも知れませんが、もともとデビュー作は『日本陸軍と大陸政策――1906-1918年』で、ある意味でホームグラウンドに帰ってきたと言えるかもしれません。
 目次は以下の通り。

序章 予備的考察
第1章 政治と軍事の病理学
第2章 支那課官僚の役割
補論 満州事変とは何だったのか
第3章 陸軍派閥対立(一九三一‐三五)の再検討
第4章 宇垣一成の一五年戦争批判

序章と第1章が日本陸軍の一種の通史で特に第1章はこの本の全体の要約的なもの伴っています。第2章の「支那課官僚の役割」は日本陸軍の「中国通」がいかに処遇されいかなることを考えていたかということをたどったもので、内容的にはかなりマニアック。第3章では宇垣一成の後継と目された南次郎(一般的に単なる宇垣閥の一因と見られがちな南次郎ですが著者の評価はけっこう高い)の動きを追いながら、「皇道派」と「統制派」の対立で語られがちな陸軍の派閥対立を、「南閥(宇垣閥)」という存在に着目しながら再検討しています。そして第4章では、満州事変から太平洋戦争の敗北に至る間の宇垣一成の行動や日記の内容を検討しつつ、宇垣一成の視点を通して十五年戦争の節目節目を再検討するような内容になっています。


 一般的に、陸軍の派閥対立というのは「悪い」ことだと捉えがちです。さらにその派閥に乗っかった派閥の親玉が政治に介入したことが日本を戦争の道に引きずり込んだと思われています。
 世間にも流布している非常に単純な理解だと次のようなものになるでしょうか。
 日本陸軍山県有朋桂太郎寺内正毅田中義一といった「長州閥」が権力を握り続けた非常に閉鎖的な組織で、その「長州閥」が陸軍を代表する形で政治の中枢に入り込み、陸軍の力を拡張していきます。さらにその「長州閥」に対する半主流派が「皇道派」となり、国家総動員体制をめざす「統制派」と暗闘を繰り広げます。その暗闘は二・二六事件という形で暴発し、「皇道派」が見せつけた暴力に乗っかる形で「統制派」が完全に権力を握り、国家総動員体制を実現させて日本を戦争へと引きずり込んだ。


 ところが、著者の見方は少し違います。著者は「派閥」を必ずしも「悪」だとは考えず、むしろ「派閥」を率いることのできるような政治力を持った実力者がいなくなったことが昭和陸軍の暴走につながったと見ています。

 派閥は、がんらい有力者を中心とする私的集団である。軍内部で権力を獲得し、これを強化するためには、複数のポストを押さえなけらばならない。望むらくは陸軍大臣となり、かつ参謀総長の地位をも友好的な人物の手に獲得したい。最悪でも、これを封じ込めて無害化しなくてはならない。それが、実は長州閥や田中や宇垣、さらに荒木までの実力者がやってきたことであった。
 さらに彼等は、その政策を実現し、権力を維持・獲得するため、陸軍以外の集団とも関係を持つようになる。かつての藩閥はもちろんのこと、田中・宇垣は政党と密接な関係を持っていた。荒木・真崎でさえ、他ともつながりを持っていた。たとえば荒木の反共路線は、反共国際主義へのつながりを持っており、英米との関係回復にはある程度熱心であって、広田外交とはかなりの親近性を持っていた。永田もまた、同年代の多くの省の官僚や政治家と深い関係があったことは、よく知られている。 
 このような強烈な権力意志とその担い手が、二・二六事件後には陸軍から消えてしまったわけである。(86ー87p)

 そして、二・二六事件以降の陸軍が「強く」なったのではなく、むしろ「弱く」なったという見解を打ち出しています。

 陸軍が間接的・合法的存在にとどまったのは、陸軍の自制でも余裕でもなく、弱さの現われであった。総力戦の時代には、統帥権の独立が時代遅れであることも明らかであった。しかし統帥権の独立を克服する方法がなかった。(88p)

 そして有力者を失い、「弱く」なった陸軍の末路が東條英機の首相就任です。

 東條は陸軍大臣が一年三ヶ月、しかも首相就任となってようやく大将となったもので、それまでは中将であった。クラウゼヴィッツは、内閣にどうしても軍人を入れなければならないときは、最高の実力者を入れなければならないと述べている。ところが、一九四一(昭和十六)年の日本は、政治経験の乏しい一軍官僚に、軍政を委ねるどころか、国家の運命を委ねることとなってしまったのである。(89p)


 このように、著者は権力核を失って単なる官僚機構となってしまった陸軍が有効な政治的決断をできなくなってしまったことが十五年戦争時の陸軍、そして日本の迷走につながったと見ています。
 確かに、陸軍の動きを見ていると局面局面では冷静な判断力を持っている人間が存在するものの、そうした判断は既成事実や時勢といったものの前に力を持つことができません(例えば、日中戦争を推し進めた武藤章は対米開戦の直前に独ソ戦の状況などから対米開戦に慎重になるのですが結局押し切られます。川田稔『昭和陸軍の軌跡』中公新書)参照)。


 そして、こういった説明を聞くと、ある程度戦前期の政治史を知る者にとっては著者が宇垣一成を高く評価している事にもピンと来るでしょう。
 三月事件や十月事件の黒幕として名前が上がる「陰謀家」の宇垣ですが、いわゆる宇垣軍縮を成し遂げた彼の「政治力」は昭和期の軍人の中ではずば抜けていますし、また政党政治家などにも人脈を広げている野心家でもありました。著者の言う「強烈な権力意志とその担い手」という条件にピッタリと当てはまるのが宇垣一成です。
 「歴史にIfはない」と言いますが、この本のための書き下ろし論文である第4章「宇垣一成の一五年戦争批判」は、著者が「もし宇垣が首相になったら、あるいはもう一度陸軍内部で権力を握ることができたならば…」ということを念頭に置きながら書かれたものと言えるでしょう。
 この論文を著者は次のように締めくくっています。

 明治憲法においては、天皇が絶対的な権力を持ちながら、それを行使しないことが期待されていた。天皇に代わる制度的な統合者は存在しなかった。明治憲法体制が機能するためには、多数の輔弼・助言機関が、相互に配慮して、政策統合を進める必要があった。しかし、それぞれの助言機関においてセクショナリズムが進展するにつれ、国家的意思決定はきわめて難しい状況に立ち至っていた。
 その中で、もっとも強力な破壊力を持つのが陸軍であった。その陸軍に立脚しつつ、非制度的な力で他と結びつき、全体的な政策統合を実現しうるものが必要であった。明治期において藩閥が果たしたその機能を、かろうじて果たす可能性を持っていたのが、宇垣だった。しかしその非制度的な力は、野心と紙一重であり、しばしば不純で邪なものと見えた。しかし、その不純で邪な非制度的力を取り去ったとき、明治国家は機能することを停止せざるをえなかったのである。(344ー345p)

 ここに一言付け加えるとすれば、この宇垣を「不純で邪なもの」と見た人物の一人が昭和天皇だったというところに宇垣の蹉跌の原因があるんですよね。
 あと、この本では明示的には書かれていないけど、永田鉄山については触れられているのに石原莞爾はスルーってことは、著者は「石原莞爾はダメだった」判断しているのでしょうね。「天才」と称されることも多い石原ですが、「野心」はあっても「全体的な政策統合を実現しうる」力はなかったと見るのがやはり妥当でしょう。


官僚制としての日本陸軍
北岡 伸一
4480864067