ジョナサン・フランゼン『フリーダム』

 家族小説の傑作。とにかく読んでて面白い。以上。
 これだけで書評を終えてしまいたくなるのが、このジョナサン・フランゼン『フリーダム』。750pを超えるかなりのボリュームですが、最後まで物語のパワーは衰えず読み進めることができると思います。


 ただ、何がそんなに面白いのかといわれると説明するのはやや難しい。
 今までのアメリカの家族小説というと、サリンジャーでもアーヴィングでも、最近だとリチャード・パワーズ囚人のジレンマ』でも、けっこう「変な」家族が主役でそれが現代社会なりアメリカ社会の病理を反映しているといった物が多いんですけど、この『フリーダム』に描かれている家族はそれほど「変」ではありません。
 また、確かに共和党支持層と民主党支持層の典型を登場させつつ、いわゆる「分断されたアメリカ」を描いてもいるのですが、ことさらにアメリカ社会の問題点が小説の前面に押し出されることはありません。ブッシュ政権イラク戦争の「闇」的な部分もとり上げられていますが、それもこの小説のメインテーマとなるようなものではありません。
 小説のスタイルも、「過ちは起こった」の部分の語りが最初はややトリッキーに感じられますが(誰が書き手なのかわからない)、その謎を最後まで引っ張るわけでもなく、比較的ストレートなものになっています。


 物語はミネソタの荒れ果てた住宅地にやってきたウォルターとパティの夫婦を描くところから始まります。
 パティは専業主婦でいわゆる「善人」。人の悪口を嫌い他人の世話を焼く、そしてそんなパティにはよく出来た長女のジェシカと何事にも完璧で自信満々、そして母のパティに溺愛される長男のジョーイ。しかし、パティの溺愛がジョーイの性格を少し歪めてしまったのか、ジョーイはウォルターの考えとは相容れない共和党支持の貧乏白人の家でそこの娘のコニーと同棲状態になり、パティの「善人」ぶりも崩壊。幸せな一家は急速にそのイメージを崩していきます。
 

 が、ここまでは750p超の小説のほんの40pほど。
 ここから体育会系の少女だったパティの過去と大学時代の思い出、そしてウォルターとその友人でミュージシャンのリチャード・カッツとの出会い。弁護士の父親とプロの民主党員の母親との間に生まれたパティは、自分に無関心な両親に反抗するようにバスケットボールにのめり込み、バスケに青春を捧げます。
 そんなパティに惚れたのが田舎育ちの純朴な苦労人のウォルター。けれども、パティはウォルターに好感を持ちつつも危険な匂いのするルームメイトのリチャードにも魅力を感じて…といった過去の三角関係的な因縁から、時代は再び進んで2004年。
 環境保護活動に邁進するウォルターと、上流階級に食い込もうとするジョーイ、そして一度狂った歯車がなかなか元に戻らない一家の様子が描かれ、物語はさらに加速していきます。

 
 とにかくこの小説の面白さはそれぞれのキャラの造形と、その関係性の描き方。ウォルター一家だけを例にとっても、夫婦、母―娘、母ー息子、父―娘、父―息子の関係がそれぞれ的確に描写されていて、その関係性が物語を引っ張ります。
 また、登場人物の口を借りた社会問題やサブカルチャーについての批評も面白い。
 例えば、僕も以前はかなり好きだったミュージシャンのBright Eyesへの次のコメント。

 なるほどこいつは本物、若き天才に違いなく、だからこそ余計カッツには耐えがたい。いかにもソウルフルなアーティストという苦悩ぶりも板についているし、気の向くままにやりたい放題、普通なら持たない長さまで曲を引っ張り、あの手この手でポップスの慣習を巧みに破ってみせる。真摯さを演じ、演技が真摯さを嘘と化しそうになると、今度は一転、真摯たることの困難への真摯な苦悩を演じるのだ。(508p)

 これは、この時にはベテランミュージシャンになっていたリチャード・カッツのBright Eyesのライブを見ての感想なのですが、Bright Eyesのライブを見たことがある人なら、こんなふうに意地悪に思うかどうかはともかくとして頷く部分も多いのではないでしょうか?


 ただ、別に著者は特定の文化を貶めたり持ち上げたりもしていません。文化についても政治に対しても、そして登場人物に対してもフラットな視線が貫かれています。変な喩えですが、ちょっと司馬遼太郎歴史小説を読んだ時に感覚に似ているかもしれません。
 確か司馬遼太郎は「鳥瞰」という言葉を使って、上空の離れた場所から歴史を描くというようなことを言っていたと思いますが、この『フリーダム』は著者のフランゼンが、まさに「鳥瞰」の視点で現代アメリカ社会を描いた作品といえるでしょう(表紙も鳥ですし)。


フリーダム
ジョナサン フランゼン Franzen Jonathan 森 慎一郎
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