ミハル・アイヴァス『もうひとつの街』

 主人公の男がプラハのある古本屋で菫色の装丁が施された本をたまたま手にとると、そこに見たこともない文字が印字されていました。その謎に引かれた主人公はその本を手に入れ、それをきっかけにシュルレアリスム的な「もうひとつの街」に迷い込みます。
 いつもの街には見慣れない路面電車が現れ、ビデオカメラが載った橇を引いたイタチが主人公を追い回す。さら主人公はこの「もうひとつの街」の謎を追い求めて寺院の鐘楼でサメと格闘し、大学図書館の奥に広がるジャングルに分け入ることになります。
 「真夜中になると町は別の顔を見せる」あるいは「もうひとつの世界が広がっている」という設定はよくあって、そこに「真実」や「悪」が隠されていたりするのですが、この小説が描く「もうひとつの街」は、脈絡のない夢がそのまま現実になったような不思議で掴みどころのない空間です。


 ただ、著者の思いついたイメージだけで構成されているのかというと、おそらくそうでもありません。
 この本のはじまりは見たこともない文字の書かれた本です。そこに書かれた言葉は主人公にはさっぱりわからないのですが、その文字の形は主人公を魅了します。そしてその「文字の形」ということについて、この本では次のように語られています。

 そう、クロークの受付をしているのは、じつは、一線級の現代思想家たちが相談に訪れるほど聡明な女性で、どうしたらよいかわからないと質問を受けたときなど、彼女はこう答えるのだ。『形而上学的な観点から見て、哲学書の中で、もっとも重要なのは、文字の形。書籍は文字で印刷されているでしょ、文字の太さや細さ、あるいはひげ飾りの形(文字を注目させる爪のようなものよ)、これこそが、宇宙のもっとも本質的なものを伝えてくれているのよ』(55p)


 これを読むと現代思想に詳しい人ならデリダの「エクリチュール」の考えを思い出すのではないでしょうか?
 デリダは西洋のパロール本位主義(音声中心主義)に対してエクリチュール(文字・書かれたもの)を持ち出し、書かれた文字の持つさまざまな意味から「脱構築」の考えを発展させていったわけですが、「もしその文字が変化するとしたら?」「あるいは同じ字でも字体が違えばその意味も変わるのでは?」といったところまで思考実験を進めて、そこにさらなる混沌を見出そうとしたのかな?とも思います。
 というわけで、そうした現代思想的な仕掛けとシュルレアリスム的なイメージの混合がこの小説なんでしょう。
  

 ただ、個人的にそれが上手く行っているかと問われれば、ややいまいちかと。
 もちろんこうしたシュルレアリスム的なイメージ自体に面白さを見出す人であれば、この本は文句なしにおすすめなんでしょうけど、「文字の形」というアイディアがきちんと発展しているようには思えず、個人的にはやや不満です。
 イメージで押すなら現代思想的な部分は雑音になっている気がしますし、現代思想的なアイディアを活かすなら「もうひとつの街」の謎をもっとはっきりと描くべきでしょう。全体的に「思わせぶり」な作品に感じました。


もうひとつの街
ミハル・アイヴァス 阿部 賢一
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