『風立ちぬ』〜なぜ主役の堀越二郎が庵野秀明なのか?

 ようやく見て来ました。見た人からの評判は賛否両論でしたが、個人的には良かったです。
  今までの宮崎駿の作品に比べて「傑作!」というものではないと思いますが、宮崎駿が自己の中にある「ファシズムとの親和性」に向き合ったいい作品だと思いました。


 実は映画を実際に見る前は2つ不安があって、1つは同じ飛行機を題材にした『紅の豚』がダメだったことと、もう1つは結核にかかったヒロインということでヒロインの死を中心に「感動」するような筋立てになっているんじゃないか?ということでした。
 後者は、以前どこかで宮崎駿がドラマを盛り上げるためにストーリーの中でヒロインを殺した手塚治虫を批判していたことがあって、「これを忘れてしまったのかな?」と感じていたのです。
 ところが、この2つの心配は杞憂でしたね。『紅の豚』のように「ファシズムとの親和性」を主人公を「豚」にするというおちゃらけや安っぽいダンディズムで隠すことはありませんでしたし(『紅の豚』で敵としてイタリアのファシストが出てくるのはアリバイ作りのようなものに思えてしまう)、安易にヒロインの「死」をクライマックスにすることもなく映画を締めてました。
 特にラストのカプローニとの夢のシーンはこの映画の終わり方として素晴らしかったと思います。「戦争」と「ヒロインの死」を直接見せることなく、虚しさと悲しさ、でも充実感もある堀越二郎の人生を上手く見せていました。


 この映画は、冒頭の夢のシーンから飛行機の美しさとともに戦争の影を感じさせるのですが、主人公の堀越二郎が追求するのはあくまでも「美しさ」、夢の中でイタリアの飛行機設計士カプローニが言うように「飛行機は美しい夢」です。
 けれども、「科学への信仰+美の追求」というのはまさにファシズム的感性であって、この映画に出てくるのも「イタリア人」のカプローニ、二郎が派遣される「ドイツ」のユンカース社、そして舞台となる「日本」と、ファシズム三国同盟。イギリスやアメリカの飛行機の設計思想がどんなものかは知らないですけど、「美」という要素が持ち込まれてくるところがファシズム的ですよね。
 もちろん、宮崎駿も今までの作品を見ればわかるように「美」と「科学」が大好きなわけで、思想的にはリベラルであっても自らの中に「ファシズムとの親和性」を抱えていて、ずっとその矛盾を自覚していたんだと思います(だから『紅の豚』は失敗した)。


 この矛盾は堀越二郎への思いにも表れていて、宮崎駿堀越二郎のことが大好きなんだろうけど、同時にどこか「間違っている」と感じている部分もあるのでしょう。それが貧しい子どもに施しをしようとするシーンであったり、妹から非難であったり、何よりも庵野秀明の起用に表れているんじゃないかと。
 もし堀越二郎の声が西島秀俊だったら、完全にヒーローになってしまいますよね。
 映画の中で何回か二郎は「どこと戦争しようと言うんだろう?」と言います。自らのつくった戦闘機がどのように使われるか知らないという点で、二郎は明らかに鈍感ですし、どこかが欠落しています。
 それは菜穂子への態度にも表れていて、二郎の菜穂子への愛情は確かなんでしょうが、結核患者の前で煙草を吸ったり、どこかしら「間違っている」ところがあるんですよね。
 事前に放送されたTV番組では「技術者の佇まい、存在感」といったことが庵野秀明の起用の理由として語られていましたが、それよりも「どこか欠落した感じ」というのが庵野秀明を使った理由なんじゃないかと思いました。


 さらに穿った見方をすると、宮崎駿はこの作品を通して庵野秀明に「お前もファシズムと親和性ありまくりなんだよ」ってことを伝えたかったんじゃないでしょうか?
 その昔、深夜に録画したエヴァンゲリオンの再放送をたまたまうちの母親も一緒に見てたとき、ベートーベンの第九をバックにカヲルくん操る弐号機と戦うシーンを見て、母親が「こんなのナチスだから駄目よ」と言ったのをよく覚えているのですが(うちの母はちょうど宮崎駿と同じくらいの年齢)、エヴァンゲリオンファシズム的な「美」に溢れてますよね。ヤシマ作戦とか文字通りファッショだと思います。
 才能は十分に認めているけど、宮崎駿から見るとどこかしら「危険」なものをもっている庵野秀明を、「まっとうな道」(もちろん宮崎駿は自分の進んでいる道が「まっとうな道」ではないということを理解していると思うんですが)に引き戻したい。庵野秀明の起用にはそんな理由があったんではないかと深読みしていしまいました。


風立ちぬ (ジス・イズ・アニメーション)
スタジオジブリ
4091038212