メシャ・セリモヴィッチ『修道師と死』

 松籟社・<東欧の想像力>シリーズの第10弾はボスニア生まれの作家メシャ・セリモヴィッチの代表作『修道師と死』。セリモヴィッチはこの作品でユーゴスラヴィアで最も権威のある文学賞NIN賞を受賞しています(ダニロ・キシュが『砂時計』で受賞した賞)。
 ご存じの方も多いかもしれませんが、以前、バルカン半島オスマン帝国支配下にあり、そのせいもあってボスニアにはイスラム教徒も数多く住んでいます。この「修道師と死」というタイトルにある「修道師」なる言葉もイスラム教の神秘主義を信奉する修行者を表した言葉です(「修道士」または「修道僧」ではキリスト教や仏教のイメージが強すぎることからこの訳語を選んだそうです)。
 この作品では17世紀か18世紀のボスニアを舞台に、修道師アフメド・ヌルディンという人物の悲劇が語られています。


 個人的にこの小説のテーマをまとめるとするならば「僧侶的人間の生と死」といったところです。
 ここで言う「僧侶的人間」という言葉はニーチェによってつくられた言葉で、「道徳」によって世界に復讐しようとするような人間のことです。
 ニーチェは道徳の起源に弱者の「嫉み」や「妬み」を見て取ったわけですが、「嫉み」や「妬み」とまではいかなくても、人々は様々な理不尽な出来事をうまく消化できずに溜め込みます。ずるいやつが幸福を掴み正直者が不幸に突き落とされる、残念ながらこの世の中ではそういったことがしばしば起きてしまいます。
 そんな理不尽さを解消してくるのが宗教です。宗教は「死後の世界」や「魂」を持ちだして、地上の理不尽を神の世界で解決してくれるわけです。


 ただ、では俗世間の理不尽さはそのまま受け流すことができるか?というと、なかなか難しい所で、人間はそう簡単に理不尽さを受け入れることは出来ないですし、俗世間とのしがらみも断ち切れないわけです。
 そして、この小説の主人公のアフメド・ヌルディンはまさにそんな男です。無実の罪で捕まった弟の救出を父から頼まれたヌルディンは、そのために俗世に関わり理不尽な目にあって消耗していきます。その消耗の度合は「自分は正しい教えに従っている」と思っているがゆえに大きく、ますます世界への恨みを貯めこんでいくことになります。
 

 一方、ヌルディンの友人のハサンは全く別のタイプの人間で、地位や道徳に執着しない自由な人間です。彼は世界の理不尽さを受け入れた上で、それを上手に乗りこなしていく人間です。
 ヌルディンには、このハサンへの「憧れ」と「妬み」「尊敬」と「軽蔑」が渦巻きます。

人生はどんな規律より、広いんだよ。道徳は理念だが、人生は現実に起きることだ。人生を理念の中に押し込めて、しかも損なわずにいられるとでもいうのか?(125p)

 これはハサンのセリフですが、逆に「人生を理念の中に押し込めている/せざる得ない」のが主人公のヌルディンなわけです。
 そして、この本の第6章の冒頭(116p)には「弱者とは求める者、弱さとは弱者に求められるもの」というコーランの一節が引用されていますが、俗世間と関わり「求める者」となったヌルディンには、「弱さ」が取り憑き、ヌルディンの魂を侵食していくのです。
 

 上下二段組で444pと分厚い本で、しかも主人公の内省の描写が長々と続きます。ですから、決して読みやすい小説ではないですし、ややしつこく感じられるところもあります。
 けれども、ラストの展開はドラマチックですし、何よりも「僧侶的人間」という普遍的なタイプを上手く描ききり、なおかつ、それを相対化する人物を主人公の周囲に配置しているところが上手いです。また、この小説を読んでイスラム教とキリスト教の「近さ」というのを改めて感じました。主人公をキリスト教の修道僧としても話が成り立つのではないかと思えるほどです(ひょっとしたらイスラム教徒とキリスト教徒が入り交じる「ボスニアだから」という要因があるのかもしれませんが)。


修道師と死 (東欧の想像力)
メシャ セリモヴィッチ Me〓a Selimovic
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