坂上秋成『昔日のアリス』

 かつて、ギャングについてとても華やかな文章を書いた小説家がいたわ。はじめてその小説を読んだ時、私は大声で泣いた。それほどに圧倒的な言葉だった。ああ、これでもう私はギャングについて何一つ語ることができなくなってしまったのだって、そう考えた。けれどギャングが一人しかいないなんて誰が決めたのかしら?世界には無数のギャングがいて、きっとその小説がすべてのギャングを描き切ったわけではないはずなのよ。私には私のギャングが、あなたにはあなたのギャングが…(171p)

 これは小説の後半でこの小説の主人公がUstreamで見えない聴衆に向かって語りかける言葉なのですが、当然ここで言及されているのは高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』ですよね。
 

 今までいろいろ小説を読んできて「歴史上最も優れた小説は?」と聞かれれば迷って答えられないけど、「単なる個人の趣味として一番好きな小説は?」と聞かれれば、僕は『さようなら、ギャングたち』をあげるでしょう。
 太宰治は『もの思う葦』の中の「晩年に就いて」という文章で、小説に関して「やさしくて、かなしくて、おかしくて、気高くて、他に何が要るのでしょう」と述べていますが、個人的にそのすべての条件を満たしていると思うのが高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』。
 きっと多くの人が、『さようなら、ギャングたち』を読んで、あんな小説が書きたいと思ったのでしょうが、とりあえず今のところはそれに迫るような日本人作家の小説は読んだことがありません(海外ならサルバドール・プラセンシア『紙の民』が、それに迫る出来だと思う)。
 その難易度の高い「『さようなら、ギャングたち』ような小説」という課題に、批評家でこれが小説デビュー作となる著者が挑んだのがこの作品。
 
 
 物語は、趣味で小説を書いている主人公の女子大生がアルバイト先の映画館で算法寺という詩を書く男と出会うところから始まります。
 この算法寺という男は一風変わった男で、その名前と言いクセのあるしゃべり方と言い、小説の前半の印象だと西尾維新とかの小説に出てくるキャラのような男です。この前半のパートは文体もちょっと古めかしくてクセのある感じで、ちょっとわざとらしさが感じられるかもしれません。
 「言葉」、そして「芸術」というものでつながっていた二人ですが、結局、世間から孤立した算法寺は失踪。二人の関係はあっさりと終わりを告げます。


 そして15年が経ちます。
 主人公はレズビアンとして新宿2丁目のアテンションという店で、LGBTレズビアン、ゲイ、、バイセクシュアル、トランスジェンダー)の仲間たちと楽しくやっています。店で「アキラ」と名乗る主人公には、年下の美しい恋人ナルナと、そのナルナの7歳の実の娘、莉々花がいます。3人は擬似家族のように暮らしており、莉々花はナルナを「ママ」、主人公を「おかーさん」と呼んでいます。
 また、主人公はいくつかの小説を雑誌に発表し、夜はUstreamで顔の見えない読者たちに語りかけています。
 このように主人公は幸せに暮らしています。ある意味でユートピアにいると言ってもいいくらいです。昔、宮台真司ペドロ・アルモドバルの映画を語った時に、そこに「弱者の共同体」だか「傷を受容する共同体」みたいな言葉を見出していた記憶があるのですが、ここで描かれている世界は、まさにそんな感じです。
 ところが、このユートピアに「招かれざる客」の算法寺が帰ってくるのです。いまだに「芸術」を語る算法寺とどう向き合うか、そしてユートピアがどう変わっていくのかというのが後半の話になります。


 まず、この15年の経過という設定がうまいですね。
 描かれるユートピアは、かつてあったものでもなく、未来に夢見られるものでもありません。今こそがユートピアであり、過去にも未来にも暗闇が広がっている。そんな感覚の中で後半のストーリーは展開します。
 そして、冒頭に『さようなら、ギャングたち』について書きましたが、この小説が『さようなら、ギャングたち』的であるとしたら、その一番の点は「やさしさ」でしょう。登場人物全てに対してこの小説はやさしく、特に算法寺に対して「やさしい」。前半こそややエキセントリックですが、物語全体を通じて「不吉な存在」である彼にもやさしい目が注がれているのが、この小説のいいところだと思います。
 「おかしくて、気高くて」という点はないかもしれませんが、少なくともこの小説は「やさしい」ですし、宙吊りにされた繊細なユートピアをめぐる「かなしさ」もある。
 前半の文体とかとかラストの締め方とか不満なところはありますし、すべてにおいて圧倒的だった『さようなら、ギャングたち』に比べるとまだまだなのですが、それでも、これは誠実で良い小説だと思います。


惜日(せきじつ)のアリス
坂上 秋成
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