残雪『かつて描かれたことのない境地』

 現代中国の女性作家・残雪(ツァン シュエ)の日本オリジナル短篇集。1988年に発表された「瓦の継ぎ目の雨だれ」から2009年に発表された「アメジストローズ」まで、20年近いキャリアの中から選ばれた短編が年代順に収めれられています。
 以前から紹介されていてそれなりに名前も知られている残雪ですが、実は読むのは初めて。ほとんどが「不思議な話」なのですが、その不思議さのからくりみたいなものがわからないのが、残雪の小説の特徴。しかも、後半の作品ほど何かキツネにでも化かされたような感覚に陥ります。


 小説の中で不思議なことが起こっている場合、思いつく限り次のようなケースがあります。
 1「実際に不思議なことが起こっている(例・超能力者や宇宙人がいる)」、2「その小説で描かれる共同体が特殊(例・呪術が信じられている村では本当に呪術で人が死ぬ)」、3「達人の技の領域を描いている(例・川上哲治の「ボールが止まって見えた」)」4「登場人物の精神状態がおかしい」、5「寓話になっている」、6「作者の精神状態がおかしい」。
 ラテン・アメリカの小説だと1と2が入り交じっているようなものが多いし、カルヴィーノは5、フィリップ・K・ディックなんかだと1、4、そして6も考慮に入れてってことになるんでしょうが、残雪の小説はこれが見定めがたい。
 

 たぶん6はないです。残雪の小説はいずれも端正な文体で綴られていますし、訳者のあとがきを読むと非常にまじめな人のようです(ただ、「少年小正」に出てくる中に虫の入った意味不明な模型飛行機や、「アメジストローズ」に出てくる地下に向かって伸びるバラとかの話を読むと完全な常識人とも思えない)。
 ところが残りの1〜5のどれなのかというとそれが難しい。
 

 前半の作品は哲学的なものも多く、寓話的なもの感じさせる作品も多いです。
 例えば、「絶えず修正される原則」。やたらに自分のことを話したがる同山(トンシャン)という男がいて、彼は主人公に「ぼくには愛人がいるんだ」と、本当か嘘かもわからないような告白をしはじめます。主人公があれこれ尋ねると、彼の話は胡散臭いということがわかるのですが、彼は「でも原則はつねに覚えているよ、原則は絶えず完全なものにしていかなければならないものだから」などと言い、なぜか彼の話を聴く聴衆は増えていきます。
 この話なんかは中国の政治状況についての寓話のような気もします(ただ、現実の政治情勢にビタっと当てはまるようなものでもないとは思いますが)。


 けれども、主人公を故郷の親戚を名乗る男が突然訪ねてきてホテルにいくと、そこでホテルの地下に連れ込まれる「そろばん」という話になると、明確な寓話とも言いがたく、ほとんど「夢」に近いような話になっている。
 同じように近所の動物園からライオンが逃げ出したという「ライオン」も、まさに「夢」としか言いようない話になっています。
 一方、主人公の家に見たこともない大伯母がやってきて、そこから主人公の家族がよくわけのわからない災難に巻き込まれる「大伯母」になると、何か中国の土俗的なものが出てきているような感じですし、「少年小正」になるとそうした土俗的なものが描かれているのか、作者の意味不明なイマジネーションの垂れ流しなのかよくわかりません。

 
 ただ、明確な何かは掴めないものの、読んでいて面白い。
 寓話かと思うとそうでもない、否定神学的な構造かと思うとそうとも言い切れない、哲学的な思弁のようでありながら強烈なイメージ、そういった一筋縄ではいかない読書体験をもたらしてくれるのが、残雪の小説の魅力なのでしょう。


かつて描かれたことのない境地: 傑作短篇集 (残雪コレクション)
残 雪
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