松沢裕作『町村合併から生まれた日本近代』

 今まで日本では3回の大きな市町村合併がありました。新しい順に、ついこの前一段落した「平成の大合併」、1950年代の半ばから行われた「昭和の大合併」、そして本書で取り上げる1889(明治22)年の「市制町村制」という法律の施行にあわせた「明治の大合併」です。
 この3回の大合併によって、市町村の数は1874(明治7)年の78280から1889(明治22)年には15859、1956(昭和31年)には3957、2013(平成25)年には1719とその数を大幅に減らしています(11p)。
 しかし、この三大合併のうち、「明治の大合併」は他の2つとは内容を異にするものであり、近世の村落が解体し、国民国家を成立させるための根本的な変革だったと著者は主張しています。
 この本は「町村合併」という地味に見えるテーマをとり上げながら、そこに「近代国家の成立」という大きなテーマを見ようとしているのです。


 同じ言葉でありながら、今と昔ではその意味合いが変わってしまった言葉があります。
 例えば、「国(クニ)」という言葉は、古代の律令制であれば旧国名で名指される地域を指しますが、現在では日本全体を指します。著者は、同じように江戸時代の「村」と「明治の大合併」以降の「村」も同じ言葉でありながら、その内容は変質したと考えます。
 つまり、「明治の大合併」によって、江戸時代的な「村」が解体され、新たな「村」が誕生したのです。
 そしてこれは「国民国家」誕生のために欠かせないプロセスであり、また同時に「国民国家」をつくり出すプロセスそのものだというのが著者の主張になります。


 まず、江戸時代の「村」ですが、今の町村のようにきれいに地域ごとに分かれているとは言い難い状態でした。特に関東地方などは幕府領をはじめさまざまな領主の土地が入り組んでいて、「昔の藩が今の県で、昔の村は今の村」という具合に単純に整理できるものではありません。
 例えば、この本の28pでは、武蔵国多摩郡(今の東京の多摩地域)の村の一部が紹介されています。ここに今の東久留米市前沢あたりを指すと思われる前沢村が載っていますが、前沢村は「江川太郎左衛門支配所」(これは幕領で代官が支配)と龍ヶ崎藩の藩領というようになっています。龍ケ崎藩とは今の茨城県龍ケ崎市にあった龍ケ崎藩のことで、その飛び地がこの前沢村にあったのです。
 大河ドラマの幕末モノで薩摩藩長州藩土佐藩といった藩ばかりを見ていると、藩と村もそれなりに強固に結びついているような錯覚に襲われますが、そういった領国支配のしっかりした藩をのぞけば、村は藩などの領主の支配からある程度独立しており、村と藩や幕府は別のロジックで動いていたのです(用水の管理など村同士で協力が必要な時は「組合村」などをつくって対処し、領主権力に頼ることは少なかった)。


 また、江戸時代の年貢は「村請制」で、村ごとに年貢の額が決められ、村が責任をもって領主に収めていました。たとえ、村の中の百姓の一人が年貢を納められない事態になったとしても、他の百姓、特に村役人などの有力農民が何とかしてその穴を埋めるような形になっていました。
 この本の48p以下には、武蔵国多摩郡大沼田新田(現在の小平市の一部)の例があげられていますが、そこでは天保の大飢饉の時に名主の家がその石高を大きく増やし、その後、石高を減少させています。これは、飢饉の時に村の百姓たちが名主の家に土地を質入れし飢饉をしのぎ、余裕が出た時に買い戻したからだと考えられます。このような金融は「村融通制」とも呼ばれ、名主などの有力農民がかなり甘い条件で村の百姓たちに便宜を図っていたことがわかっています。
 「村請制」のもとでは、あくまでも村単位の経済力が問題であり、自分が良ければ他の家はどうでもいいという事にはならなかったのです。


 しかし、明治になるとこの状況は一変します。1873年に地租改正が行われ、全国一律の税率(最初は3%、のちに2.5%)、金納、そして土地の所有者が税を納める制度へと変化します。つまり村請制が解体されたのです。
 こうなると、村同士の関係も変化します。明治の初期、新政府は町村の合併をはかったもののうまくいきませんでした。その理由の一つに、自然条件などが違う村と合併することで、不作の時の年貢の減免が受けられなくなるのではないか?といった心配がありました。この本では熊谷県比企郡安塚村と飯島村の合併話において、水害の被害を受けやすい安塚村から否定的な意見が出た例が紹介されています(79ー81p)。しかし、地租改正の作業の終結後には「強いて心配するにはおよばない」との意見が安塚村から出てきます。「地租改正によって租税負担が個人責任化すれば、村単位での被害状況の差を勘案する必要はなくなり、租税の減免は、租税納入不可能になった個人と、徴税する官庁との一対一の関係に還元されてしまうから」(81p)です。


 このように納税の面から村の縛りがなくなると、今まで村の面倒を見てきた村役人たちからの不満が出てくることになります。
 明治の初期、新政府は「大区小区制」という制度を作って地方を治めようとしたのですが、村役人たちも今までの村の縛りから自由になろうと、さまざまな改革を受容しようとするのですが、それを邪魔したのはモザイク状に入り組んだ近世的な村でした。何か事業を行おうと思っても、結局は一度村に持ち帰って話し合いをしないとまとまらないようになっていたのです。


 こうした現場の問題に対して、明治政府は1884年明治17年)に戸長役場制度の全面改正に乗り出します。
 今まで村単位で置かれていた戸長を戸数500戸を基準として置くようにし、選出方法も選挙から官選へと変えました。さらに協議費(町村の財政)についても祭礼費用などに使うことを禁じ、公共事業にふさわしいものだけに支出できるようになりました。これによって戸長は今までの町村から切り離され、村人の個別的な利害からも切り離されることになったのです。
 この改革について、この本ではこの案を審議した元老院での次のようなやりとりを紹介しています。

 元老院の議官たちのなかには、この改革が、これまで培われてきた日本の町村の美しい習慣を破壊するものであると考える者も少なくなかった。その一人、楠本正隆はつぎのように言う。これまでひとつの町村の富裕な者がお金を出したり、「徳義」をわきまえた者が自ら進んで同じ町村のためにお金を出したりして、協議費の不足を補ってきた、そのような「美風」、美しい習慣は、この改革によって全く破壊されてしまうであろう、と。これに対して、改革案を提出した内閣側の委員として説明のために会議に出席していた内務官僚・白根専一は、楠本のセンチメンタリズムを冷笑するかのようにつぎのように答える。「従前と雖も富者自ら進みて貧者の為めに協議費を負担せるに非ず、況して今日の時勢人情に於いてをや」(132ー133p)

 

 著者はこの「今日の時勢人情」をもたらしたものが「市場」であり、その市場は急速に近世的な町村を解体していったと考えています。
 そして、戸長役場制度の改正と市場経済の発達によって、空虚なものと化した町村を無理やり「自治」の担い手にさせようと「明治の大合併」が行われたというのです。明治の御雇外国人であったドイツ人・アルベルト・モッセは、山県有朋に「自治」の重要性を説き、その単位としてかつての町村を考えていたといいます。しかし、近世的町村が空洞化していることをしっていた日本側の関係者は、新たな町村を「合併」によってつくり出すことで「自治」の担い手にしようとしました。
 1888(明治21)年に「市制町村制」が公布されると、それにともなって大規模な町村の合併、「明治の大合併」が始まります。こうして近世的な町村は解体され、国民国家の中の一部分を担う町村が誕生したのです。


 おおざっぱにまとめてみましたが、この本にはこれ以外にも明治期の地方自治をめぐるさまざまな動きがとり上げられていて、非常に興味深い内容になっています。最後の「むすび」の部分の国民国家をめぐるマクロ的な話についてはまだまとまっていない感じがあって、本の内容とがっちりと噛み合っていない印象を受けますが、史料から浮かび上がってくるミクロ的な部分については文句なしに面白いです。また、江戸時代の社会を考える上でも有益な本だと思います。


町村合併から生まれた日本近代 明治の経験 (講談社選書メチエ)
松沢 裕作
4062585669