アレクサンダル・ヘモン『愛と障害』

 白水社<エクス・リブリス>シリーズの新刊は、ボスニアサラエヴォ出身で現在はアメリカにおいて英語で執筆活動を行っているアレクサンダル・ヘモンの短篇集。
 「天国への階段」、「すべて」、「指揮者」、「すてきな暮らし」、「シムーラの部屋」、「蜂 第一部」、「アメリカン・コマンドー」、「苦しみの高貴な真実」の8篇が収められています。


 冒頭の「天国への階段」は「コンラッドの小説のままの、完璧なアフリカの夜だった」という少しキザな書き出しで始まる、自らの10代の頃のアフリカ体験を描いた作品で、端正な文章の中にも荒涼な世界が広がっている感じです。
 他の作品、「すべて」、「すてきな暮らし」、「シムーラの部屋」あたりも、基本的に殺伐とした世界を描いており、文章こそ違うものの、その世界観は、例えば同じ<エクス・リブリス>シリーズの『ジーザス・サン』『煙の樹』デニス・ジョンソン『神は死んだ』のロン・カリー・ジュニア、あるいは<エクス・リブリス>シリーズではありませんが『奪い尽くされ、焼き尽くされ』のウェルズ・タワーに似た感触を受けました。そして、現在のアメリカ文学ではこういうのが流行っているんだな、と。


 で、最初はこの本の作品はあまり面白いとは感じられなかったのです。
 アレクサンダル・ヘモンは、ボスニア出身ですが、1992年シカゴ滞在中にボスニア紛争が勃発し、そのままアメリカに留まりました。つまり、ボスニア紛争を直接経験しているわけではありません。このあたりが、10代前半に紛争を直接経験し『兵士はどうやってグラモフォンを修理するか』(これは名作!)を書いたサーシャ・スタニシチや、やはりユーゴ紛争の影響で7歳の時にユーゴを脱出し『タイガーズ・ワイフ』を書いたテア・オビレヒトとは違うところです。
 戦争を直接経験しなかったことははたからみればラッキーな事かもしれませんが、友人や家族などが苦しむ中で自分だけがアメリカという安全圏にいたことは後ろめたくもあったでしょう。また、表現者として「肝心なときに居合わせなかった」という念も持ったはずです(このあたりは、紛争を生き延びた詩人との交流を描いた「指揮者」からも窺える)。
 

 この「苛立ち」のようなものが作品に満ちている、前半の印象はそうでした。
 この短篇集では、著者をモデルにしたと思われる主人公の「中二病」的な痛い部分もよく描かれています。アメリカ人の夫人にアホな妄想を抱いて拒絶される「すべて」なんかはその代表例です。タイトルの「愛と障害」も、主人公が10代の頃につくった詩のタイトルで、「痛い記憶」でもあります。そして、あえてそれをタイトルに持ってきているあたりも、作者の「自傷」「自罰」のようなものを感じます。


 ところが、後半になると、「肝心なときに居合わせなかった」にも関わらず小説を書く理由、その立ち位置というものが見えてきて、著者の世界にグッと引き込まれます。
 「真実ではないものを憎む」父の姿と、その父がつくろうとした映画や本を描いた「蜂 第一部」も面白いですが、素晴らしいのがラストを飾る「苦しみの高貴な真実」。
 

 ボスニアに戻った主人公は、アメリカ大使館からパーティーの招待を受ける。そこにはピュリッツァー賞を受賞した作家リチャード・マカリスターが来ている。マカリスターは人生のどん底や苦しみ、戦争の苦い記憶などを描く作家でありながら、ベジタリアンであり酒を飲まず「仏教徒もどき」のライフスタイルを持っている人物です。
 主人公はマカリスターがいけ好かないこともあり、酔っ払った挙句マカリスターに散々絡み、自分の家に昼食を食べに来るように強引に約束させます。
 もちろん、主人公は来るとは思ってないのですが、マカリスターは来るのです。そして、今度は主人公の両親が息子の作家としての将来性などを聞き出したいがためにマカリスターに散々に絡みます。主人公はこれが恥ずかしくてしかたがないのですが、両親は気にもしません。
 主人公とマカリスターの交流はこの恥ずべきエピソードで終わりますが、しばらくして主人公はマカリスターの新作に、このエピソードが使われていることに気づきます。それも全く別の文脈で使われているのです。
 

 ここに、「肝心なときに居合わせなかった」にも関わらず小説を書く一つの答えが示されているのだと思います。
 「本当の地獄」を見たものは死んでしまいます。つまり、「本当の地獄」について書けるのは「本当の地獄に居合わせなかった者」だけです(もちろん「本当の地獄」について書くのは不可能に近いのでしょうけど)。
 その事実と可能性を、「苦しみの高貴な真実」は示しています。そして、それは著者のアレクサンダル・ヘモンが小説を書く理由でもあるのでしょう。
 というわけで、最初はいまいちノレなかったこの短篇集ですが、ラストの「苦しみの高貴な真実」を読んだあとは素直に感動しました。『兵士はどうやってグラモフォンを修理するか』や『タイガーズ・ワイフ』とは全くちがうタイプの作品ですが、これもまたユーゴ紛争が生み出した(生み出してしまった)文学の一つであり、文学の可能性を感じさせてくれる作品です。


愛と障害 (エクス・リブリス)
アレクサンダル・ヘモン 岩本 正恵
4560090319