斎藤環『承認をめぐる病』

 現在の若者、あるいは若者にとどまらず多くの人にとって問題となっている「承認」の問題。著者の斎藤環は、その問題を冒頭で次のように簡潔にまとめています。

 他者の許しがなければ、自分を愛することすら難しい。承認依存とは、つまるところそういうことだ。(1p)


 この「承認依存」、それが生み出すコミュニケーション至上主義。これが「ニート」や「ひきこもり」、あるいは「新型うつ」や「スクール・カースト」などの土壌となっており、若者の問題のキーになっているというのが著者の見立てです。
 ただ、この本は論文・エッセイ集であり、その中にはこの「承認」の問題から離れたものもあります。けれども、この本を貫くものはやはり「承認」と「コミュニケーション」の問題といえるでしょう。
 目次は以下のとおり。

●思春期解剖学
01 若者文化と思春期
02 終わりある物語と終わりなき承認
03 「変わらない」ことの「幸福」と「不幸」について
04 若者の気分とうつ病をめぐって
05 「良い子」の挫折とひきこもり
06 群れる力と群れない力
07 サブカルチャー/ネットとのつきあい方
08 家族と暴力―時代的変遷について
09 秋葉原事件―3年後の考察
10 震災と「嘘つき」

●精神医学へのささやかな抵抗
11 「精神媒介者」であるために
12 Snap diagnosis事始め
13 医療は「ひきこもり」現象をどう引き受けるのか
14 ひきこもりと対人恐怖・社交恐怖
15 現代型うつ病は病気か
16 すべてが「うつ」になる―「操作主義」のボトルネック
17 悪い卵とシステム、あるいは解離性憤怒
18 「アイデンティティ」から「キャラ」へ
19 ミメーシスと身体性
20 フランクルは誰にイエスと言ったのか
21 早期介入プランへの控えめな懸念


 論文・エッセイ集なので、この本の主張を要約することは難しいですが、いくつか重要だと思える点を拾っていきたいと思います。
 「03 「変わらない」ことの「幸福」と「不幸」について」で語られるのは、現在の若者に見られる「自分の「変わらなさ」に対する確信」(54p)です。以前は思春期に見られる劣等感や自己嫌悪も、成長とともに解決していくだろうという見方ができたが、今の若者にはそれが通じにくいとして、次のようなエピソードをあげています。

 若者の就労を支援するNPO団体「『育て上げ』ネット」代表の工藤啓によれば、「センス」という言葉が象徴的であるという。彼らはしばしば「自分にはセンスがない」という言い方をするが、それは「天賦の才」のようなイメージで使われているらしい。例えば、きれいな資料を作るように指示されても「デザインのセンスがないから無理です」と返されてしまう。ここには学習や修練によって、できないことができるようになるといった変化への不信が如実に現れている。(55p)


 古市憲寿は著者の『絶望の国の幸福な若者たち』で、「未来に絶望しているからこそ今が幸せ」という若者の姿を描き出しましたが、斎藤環は「なぜ若い世代の「うつ病」が増加傾向にあるのだろうか?」(58p)と疑問を示します。
 そして、現在が幸福にしろ不幸にしろ、若者に共通するのは「「自分は自分で変わりようがない」ことの確信」であり、「彼らは絶望しているのではない。ただ「変化」というものが信じられないのである」(59p)とつづけます。「希望がない」というよりは、「今の状態から変化がない」ことが彼らの「幸福」につながっているというのが斎藤環の見立てです。


 では、現在の「幸福」と「不幸」はどこで分かれるのか?「おそらくそれは「仲間」の存在である」(61p)といいます。つまり、「仲間」がいれば「幸福」、「仲間」がいなければ「不幸」というわけです。
 そして、その「仲間」との「コミュニケーション」と「(仲間からの)承認」こそが、若者における「幸福の条件」となり、その「仲間」の中での居場所をつくるのが「キャラ」です。


 しかし、人格の「キャラ化」には副作用もあります。「18 「アイデンティティ」から「キャラ」へ」では、キャラには解離性同一性障害(DID)の交代人格に近いものがあるとしています。解離性同一性障害の交代人格は、「明確な「スペック」」があり、「「記述」することが可能な存在」です(213p)。
 しかし、交代人格も「キャラ」も、その徹底的な記述可能性のゆえに「固有名」を持ちません(持たないというと大げさかもしれませんが、ある人間が確定記述の束に完全に還元できるなら固有名はいらなくなる。このあたりは固有名をめぐるラッセルの理論やそれに対するクリプキの反論の話と同じ)。
 これを受けて、斎藤環は次のように論じています。

 ここに問題があるとすれば、キャラ化が成熟・成長とは相反するベクトルをもつという点であろう。そもそも操作主義化の前提には社会の成熟化があり、社会の成熟は個人の未成熟をうながす。つまり、キャラとは、個人がもはや成熟を要請されない社会における存在様式の一つとして考えられる。ここでDIDの交代人格がほとんど成長しないことを想起しておこう。キャラのスペックが成長することなく固定化されているからこそ、ただ一つの身体を複数の人格が共有できるのである。(219p)


 著者の、この「キャラ化」に対する見方は両義的です。
 「20 フランクルは誰にイエスと言ったのか」では、ナチス強制収容所を生き延びたフランクルの「責任」「意味」「価値」といった言葉への素直な信頼に「相田みつを」的なものを感じながら(247p)、その「固有性」へのこだわりに注目しています。
 アガンベン東浩紀は、強制収容所の「死」を、「固有性の奪われた死」「誰でもよかった死」として位置づけますが、これは「特殊性」であり「固有性」ではない、フランクルを読むとそれが見えてくる、というのです(250-252p)。
 そして、「キャラとして承認」から「固有名としての承認」の道筋を探ります。

  
 しかし一方で、「キャラ化」が社会のもたらすある種の必然でもあると見ています。
 例えば、「18 「アイデンティティ」から「キャラ」へ」のラストは次のように閉じられています。

 成熟もまた想像的な位相において生ずるものであるとするなら、その機能がキャラ化とともに後退せざるを得ないのはある種の必然である。すでに精神医学が神経症概念を放棄した時点にその端緒があったと著者は考えている。解離性障害ないし発達障害などの概念に重心が移行するとともに、キャラという概念にも新たな精神医学的地位が要請されるようになるであろう。もしそうであるなら、身体的成熟のアナロジーとしての人格的成熟に代わる、あらたな精神の自由と安定のスタイルが考えられる必要があるだろう。(227p)


 この他にも、「承認」をめぐるスタンスの違いがそのまま「キャラ」になっているというエヴァンゲリオンの読解(「02 終わりある物語と終わりなき承認」)、統合失調症患者の持つプレコックス感などについて語った「12 Snap diagnosis事始め」、操作主義化の進展が病因の一元化をもたらすという「16 すべてが「うつ」になる―「操作主義」のボトルネック」なども面白く、読み応えのある内容になっていると思います。


承認をめぐる病
斎藤環
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