ジーン・ウルフ『ピース』

 『ケルベロス第五の首』や『デス博士の島その他の物語』、「新しい太陽の書」シリーズなどで知られるジーン・ウルフの初期長編。ウルフというとSFあるいはファンタジーの作家として知られていますが、この『ピース』はどのジャンルにもうまくはまらない不思議な小説です。
 一応、前半は初老の男が自分の子ども時代を思い出す、といった形で過去の記憶がウルフらしい端正な文体で語られているわけですが、いきなり冒頭に次のような不思議な語りがあります。

 医者について言えることがひとつある。死んだ医者でも相談相手にはことたりるということだ。そこでぼくはブラック先生とヴァン・ネス先生に診てもらう。
 ブラック先生には子供(ただし卒中病のみ)として、ヴァン・ネス先生には大人として。(7p)

 ヴァン・ネス医師はぼくよりも少し若いくらいで、テレビのドラマに出てくるものすごく有能な医者のような見かけをしている。どこが悪いのですかと尋ねられ、ぼくは先生もほかのみんなも死んだあとの時間を生きているんだけど、脳卒中を起こしたんで助けてほしい、と訴える。
「ウィアさんは、いまおいくつですか」
 ぼくは(見当をつけて)答える。(9p)


 のっけからこれなのです。
 主人公はオールデン・デニス・ウィアという男なのですが、この主人公が何なのかがまずわからない。
 さらにしばらくあとに、このヴァン・ネス医師との間にこんな会話があります。

「よろしい。あなたは脳卒中を起こされたのですね。そうは見えないと言わざるを得ませんが、そういうことにしておきましょう。どんな具合です」
「いまじゃないんです。いまはまだ起きていません。理解していただきたいのですが」
「これから脳卒中を起こすと言うんですか」
「未来はすでに起きたことなんです。でも助けてくれる人はもう誰も、まったく誰もいない。どうしたらいいのか分からない 〜 ぼくは遡ってあなたに会いに来ているんです」(22ー23p)

 主人公は死んでいるようにも思えます。じゃあヴァン・ネス医師は?彼は生きているのか?それとも死後の世界の話なのか?
 とりあえず、わからないままに読み進めるしかありません。


 そこから祖父や叔母のオリヴィアなどとの子ども時代の思い出が語られていきます。
 最初のうちはいかにも子どもらしい思い出の断片がいくつか登場します。ある種「平和(ピース)」な子ども時代をずっと回想していく小説なのかな?とも思います。
 ところが、オリヴィアが求める磁器製の「中国の卵」や、オリヴィアと結婚することになるジュリアス・スマートなる人物が若い頃に出会った謎の薬剤師とサーカスの一団、街の古本屋で売られているという『放埒な法律家」なる謎の本など、次々と不思議なエピソードが登場するようになります。
 あらすじだけをたどれば、法螺話のようなものもあるのですが、そこはジーン・ウルフ、すべてのエピソード、そしてそれぞれのつながりが緻密に計算されています。
 まあ、もっとも僕が見抜いたつながりなどは一部分で、鋭い人ならもっとたくさんのつながりに気づくでしょう(一日、寝る前に20〜30ページほど読み進めるタイプなので、正直、見逃している仕掛けは多いと思います。)


 ただ、読み終わっても肝心な部分には謎が残ります。主人公の正体、タイトルの「ピース」という意味、途中で退場した人間のゆくえ…。
 おそらくウルフの小説なので答えはあるのでしょう。この小説に散りばめられた小さな謎には答えがあります。けれども、大きな謎は一筋縄ではいかない。そういう謎めいた魅力をたたえている小説ですね。
 

ピース
ジーン・ウルフ 西崎憲
4336057885



 ジーン・ウルフを読んだことがない人にはいきなり長編は大変だと思うので、短篇集の『デス博士の島その他の物語』をお薦めします。


デス博士の島その他の物語 (未来の文学)
ジーン ウルフ Gene Wolfe
4336047367