清水克行『喧嘩両成敗の誕生』

 2006年に出版され評価も高い本ですが、やはり面白いですね。
 タイトルが「喧嘩両成敗の誕生」となっているように、喧嘩両成敗の中身よりも、喧嘩両成敗という日本人は当然のように受け入れていながら実は他ではあまり見られないルールがどのような時代背景の中で誕生したかを探った本です。
 この本に描かれているアナーキーで過剰で血なまぐさい室町時代の日本の様子は、「美しい国・日本」みたいな言説を吹き飛ばすインパクトがあります。


 第一章の冒頭で紹介されるのは、酔った北野社の社僧(神社に仕える僧侶)と稚児の一行が、金閣寺の門前で金閣寺の僧が立ち小便をしていたのを「笑った」ことから、双方殺し合いとなり、さらにあわや北野社と金閣寺の全面そうになりかけたという1432年のエピソードです。
 「お釈迦様が泣くぞ!」としかいいようがないエピソードですが、室町時代は武士だけでなく、僧侶や商人や土民もすぐにキレて殺し合いになったのです。
 応仁の乱における東軍の総大将・細川勝元。かれは管領もつとめた大大名ですが、生涯二度、部下に殺されかけています。両方とも男色がらみのようなのですが、そのうちの一つは囲碁の対戦中に勝元が片方の少年に助言した、ということが原因です。
 自分の主君が相手であっても面目が潰されればキレる、そんな時代だったのです。



 そしてやられたほうは復讐を正当なことだと考えていました。親の敵を討つ「親敵討」、妻を寝取った間男を討つ「妻敵討」は法的にこそ保護されていなかったものの、世間では「正当」とみなされていましたし、やられたら相当の仕返しをするのは当然だと考えられていました。
 また、その仕返しは個人間ですまず、すぐにその者が属する集団にまで拡大しました。
 この本の第三章では、京都の本結屋(もとゆいや・髪を結うヒモを販売する商人)と注文した本結を受け取りに来た下女とのトラブルが「合戦」と呼ばれるような大市街戦に発展したケース(69ー72p)、山伏を殺害した大名が屋敷を山伏に取り囲まれて脅迫されたケース(63ー66p)、大名の被官が殺されると、その犯人の村を大名の軍勢が焼き討ちにするケース(74p)など、小さいトラブルが周囲の集団を巻き込んで大きな騒乱になっていったのです。


 さらに、この本の第四章では、室町時代の容赦無い落ち武者狩り、失脚した大名屋敷での略奪、流罪はほぼ死罪と同義だった、といった話を紹介し、室町時代の過酷な現状を教えてくれています。
 当時、「法の埒外」に置かれた人間は全く保護を受けられず、本当に「自力」で生き残るしかなかったのです。


 もちろん、室町幕府はこうした野蛮な風習を抑え、裁判で物事を解決しようと図りましたが、足利義満を中心とした一時期を除いて政権基盤の安定しなかった室町幕府に、こうした風習を完全に押さえ込む力はなく、「目には目を」的な、「同罪」、「相当の儀」、「折衷の法」といったものが用いられるようになっていったのです。


 こうした流れを受けて誕生したのが戦国大名の分国法に見られる喧嘩両成敗の規定です。
 この喧嘩両成敗の規定は、戦国大名が配下のあいだの私闘を禁止したものと解釈されることが多いですが、著者はそれよりも私闘を裁判の場に誘導する効果の方に注目しています。
 そして江戸時代になると、喧嘩両成敗を法制化したりはしませんでしたし、適用されるケースも減っていきました。喧嘩両成敗はいわばその役割を終えたのです。

 
 しかし、赤穂事件において浅野内匠頭のみの切腹が「喧嘩両成敗に反する」と主張されたように人々の心のなかには、「喧嘩両成敗」という規範が残り続けました。これは著者がプロローグとエピローグで紹介しているように現代の社会にも生きています。
 現代とは全くちがう室町時代の人々。一方で、そこで生まれた規範が現代にも生き続けている不思議。そんなことを最後に感じさせられました。


喧嘩両成敗の誕生 (講談社選書メチエ)
清水 克行
4062583534