テツオ・ナジタ『原敬―政治技術の巨匠』

 前に読んだ、黒澤良『内務省の政治史』に参考文献としてあがっていたことから知った本。1974年出版の古い本ながら非常に面白いですね。
 1905年から1915年にかけて、原敬が政友会を躍進させた10年間を分析した本で、副題が「政治技術の巨匠」となっているように、原がいかなる手練手管をもって政友会という組織を成長させたか、そして政党嫌いの山県有朋にその政友会と原という政治家の存在を認めさせることができたのか、といった部分に焦点を当てています。
 

 ここ最近、日本の政治史において、政友会よりも民政党(憲政会)を評価する本が多い印象があります(例えば、坂野潤治『日本近代史』などでは露骨に政友会を低く、民政党を高く評価している)。確かに、田中義一以降の昭和の政友会というのは、「民主主義の足を引っ張った」部分も多く、評価できる部分は少ないかもしれません。また、「我田引鉄」と呼ばれた政友会の利益誘導政治も、自民党政治の原型として批判的に見られているのでしょう。
 しかし、この本を読めば、原の行った利益誘導政治は藩閥に抵抗するだけの力を持った組織を作るために必要なものであり、原が一つ一つ藩閥の力をそいでいったことが、政党内閣の誕生と、1920年代半ばから1930年代前半にかけての二大政党制の成立につながったことがわかると思います。
 

 政治ではよく「理念」が重要だと言われます。昨今の日本の政治でも政党の再編などのときによく聞かれるのが「理念が大切」、「理念がちがう人とは一緒になれない」といった言葉です。マスコミの人が政治家にインタビューするときも聞きたがるのはその人の「理念」です。
 ただ、政治は普通「理念」がカバーするよりもより多くの領域について何らかの判断をしなければならないもので、「理念」だけですべての政策を判断したりすることはまず不可能です。そして「理念を同じくする」といっても、個々の政治家はそれぞれ違う支持層に支えれら、違う地域から選ばれているので、細かい政策において考えの違いが出てくるのは必然です。
 だから、政党の再編というか政治家の離合集散が絶えないのです。


 実は明治時代の政治も、元勲とよばれる人たちがそれぞれの「理念」を持ちながら、ときに対立し、ときに協調しながら離合集散を繰り返していました。
 そんな中でそれとは異質の政治、つまり「理念」ではなく「組織」を重視したのが原でした。著者は政友会の創設者・伊藤博文と原の違いを次のように述べています。

 伊藤とは異なり、政治の要諦が組織化にあることを、そして組織こそが、山県閥を始めとする超然主義勢力との長期間にわたる合法闘争に、決定的な重要さを持っていることを、原は明瞭に理解していた。伊藤の権威に依存したとはいえ、原は、伊藤のように政治勢力間の「均衡」や「調和」の達成を求めようとはせず、政友会を明治憲法体制下でもっとも強力な政治集団に育成することに努めた。(5-6p)

 

 この組織拡大のために、原は鉄道の国有化を進め、鉄道予算を一般会計から特別会計に切り離し、後藤新平などが主張した鉄道広軌化を葬り去りました(狭軌のほうが同じ予算でより多くの地域に鉄道を引けるため)。後藤の壮大なビジョンを、原の党勢拡張の論理が打ち砕いたのです。
 また、1906年に第一次西園寺内閣の内務大臣に就任すると、まずは警察組織の人事に介入し、山形有朋系の大浦兼武の一派を追放、警視総監を政治的官職にして警察への指揮権を確立しました。さらに床次二郎、水野錬太郎といった官僚を抜擢、知事についても政友会の弱い都道府県には政友会色の強い「政友会知事」を。政友会の強い地域には中立の者、あるいは旗幟のはっきりしない者を送り込み、党勢の拡張に務めました(75ー86p)。
 

 もちろんこうした原のやり方は褒められたものではないかもしれません。
 けれども、天皇の持つ形式的な絶対的権力のもとで、各勢力がバランス・オブ・パワー的なゲームを繰り広げる構造になっていた明治憲法化の政治において、政党が「理念」にとどまらない力を持つということは、政党政治の実現のためには必要なことでした。
 著者は、原のこうした姿勢を高く評価しており、一方、戦前の民主政治の「理念」を代表する政治家である尾崎行雄犬養毅、特に尾崎行雄への評価は低いです。
 尾崎行雄に対しては次のような評価をしています。

 尾崎はおそらく、立派な評論家ではあったろうが、政治家としてはそれほどでもなかった。(中略)その理由は、一つには、彼が野心家であると同時に自己中心的で、自らいっているように、人に「頭を下げるのが嫌ひ」だったからである。(161ー162p)

 尾崎行雄は「憲政の神様」などと呼ばれ、戦前の政治家の中では例外的に「清廉潔白」的なイメージが有りますが、それは彼が上の文章にあげられたような欠点から重要な役職につけなかったことの裏返しでもあります。


 しかし、尾崎の才能、特に弁舌の才能というのはさすがのものであって、それが遺憾なく発揮されたのが大正政変です。この本が中心として描くのもこの大正政変になります。
 大正政変というと、2個師団増設をめざす山形有朋ひきいる陸軍が、上原勇作陸相を辞職させることによって第2次西園寺内閣を崩壊させ、山県閥の1人であり内大臣侍従長であった桂太郎が首相に復帰、天皇詔勅を利用して政治を進めようとしたことから第一次護憲運動が起きて第3次桂内閣が退陣に追い込まれた、というのが教科書的な説明になります。
 しかし、千葉功『桂太郎』などにも書かれているように、大正政変は「政党」VS「山県閥」といった単純な構図が当てはまるものではありません。桂が山県の軛から逃れて政党を基盤とした強力な政権をつくろうとした動きでもありますし、桂園時代の「情意投合」が破れたあとの原と桂の激突でもありますし、原率いる政友会が藩閥から力を削り取る好機でもありました。
 

 この大正政変についての記述は非常に面白いので是非本書を読んで欲しいのですが、原と桂の激突に関しては次のようにまとめてあります。

 桂と原も、二人の間のとりきめを改めようとしていた。桂は妥協の政治をやめて、政党を藩閥、つまり超然内閣の代表者の側にひきよせ、衆議院を征服しようとしていた。これに対し原は、妥協の政治を続けて藩閥を政党の側にひきよせ、貴族院を征服しようとしたのである。両者の対立は、とりも直さず、政党発展の性格とコースとに対する決定的な影響力をめぐる対立であった。(200p)


 この時、桂の攻勢の前に政友会が分裂すれば、戦いは桂の勝利に終わったのかもしれません(もっとも桂には健康問題があり、そううまくいかなかったでしょうが)。けれども、ここで原のつくり上げた政友会という「組織」が分裂せずに統一を保ったことで、戦いは原の勝利に終わりました。
 さらに、原は「理念」でもって山県閥を粉砕するのではなく、山県に政友会の力を認めさせることで、政党内閣への道を切り開いていきます。そして、本書の分析は原が山県との対話のチャンネルを築き上げるところで終わります。ついに「政党嫌い」の山県に政党の力を認めさせることに原は成功するのです。


 このように、原敬という政治家を描くとともに、「政治の本質」のようなものを見せてくれるのがこの本の魅力です。
 例えば、本筋から外れますが「日本語版への序文」に書かれた美濃部達吉吉野作造への評価なども、「政治」というものを考えさせるものになっています。

1910年代から20年代にかけて、美濃部の著作は野心的な官僚の手引となったが、吉野の著作は批判的知識人を鼓吹する役割を果たした。吉野の思想は潜在的には反政治的だったのである


 すでに絶版の本なので手に入れるのは難しいかもしれませんが読む価値はあります。そして、どこかで復刊しないですかね?


原敬―政治技術の巨匠 (1974年) (読売選書)
テツオ・ナジタ 安田 志郎
B000J9GAGU