ロナルド・H・コース『企業・市場・法』

 ノーベル経済学賞受賞者にして、「コースの定理」でも知られるロナルド・H・コースの論文集。
 ちなみに「コースの定理」とは、kotobankの依田高典氏の解説によると次のようなものです。
 

 所有権が確定されているならば政府の介入がなくても市場の外部性の問題は解決される、という主張で、最初に提起したシカゴ大学のコースにちなんでこう呼ばれている。この定理は、普通、所得分配の問題をひとまずおくと、外部不経済の発生者が被害者に補償金を支払っても、反対に被害者が外部不経済の発生者にお金を払って外部不経済をなくす処置をしてもらっても、パレート最適性を回復できるというように表現される。ただし、この定理が成り立つのは「取引費用」が存在しない世界のみである。しかも、環境問題を例に挙げるまでもなく、今日では、所有権を明確に規定することは極めて困難である場合が多い。その場合は、逆に政府が積極的に介入することが必要になるであろう。


 最後はなんとなく否定的に書かれていますが、この「コースの定理」というのはもともとコースが提唱したものではなく、経済学者のスティグラーがコースの論文にあった考えを取り出して定式化したもので、コース本人はこの論文集の中で、実は「取引費用」にこだわっています。
 コースが問題にしたかったのは「取引費用がゼロ」という非現実的な世界の話ではなく。取引に何らかの費用がかかる現実的な世界の話なのです。
 このことについて、コースはこの本の冒頭に置かれた自らの論文についての解説で次のように述べています。

 私の議論が示唆していることは、われわれが現実の世界を研究できるように、正の取引費用の存在を経済分析のなかに明示的にとりこむことの必要性である。ところが、私の論文の与えた影響はこれとは異なっている。学会誌でいろいろと論じられたのは、もっぱら取引費用がゼロの世界についての命題である「コースの定理」についてであった。この反応に私は失望したが、しかしそれは理解できることでもあった。コースの定理が適用される取引費用ゼロの世界は、現代の経済分析の世界なのである。それゆえ経済学者は、現実の世界からはかけ離れたものであるにもかかわらず、それが提起する理論的な問題を取り扱うことに違和感をもつことなく満足しているのである。(17p)

 そして、こうした現代の経済学者について次のように批判しています。

 彼ら(=大多数の経済学者)は理想的な経済システムの構図を描く。そうしてそれを、彼らが観察したもの(あるいは観察したと信じているもの)とくらべ、この理想的状態に達するためには何が必要かを、それがいかにしてなされうるかをあまり考慮することなしに、処方するのである。分析の取り運びはきわめてすばらしいものであるが、それは宙をただよっている。私がいうところの「黒板経済学」にほかならない。(30-31p)

 こうした文章からもわかるように、コースは黒板の上だけで経済について考えようとするのではなく、現実の社会をみながら経済について考えようとしています。
 例えば、「コースの定理」について書かれている第5章の「社会的費用の問題」は、外部不経済の問題に対するピグーの解決策を批判したものです。工場が有害な煙を排出し、それが周囲の住民に損害を与えている場合、経済学では一般的に、(1) 工場所有者に被害を賠償させる、(2) 政府がその損害分の費用に等しい税を課す、(3) 居住地域から工場を締め出す、といった解決方法がとられてきました。
 ですが、現実にはこれらの解決策とは違った方法が取られていることも多いのです。それをコースは実際の裁判の判決を数多く引用しながら示していきます。
 取引費用がゼロの世界では、「コースの定理」にあるように、「発生者が被害者に補償金を支払っても、反対に被害者が外部不経済の発生者にお金を払って外部不経済をなくす処置をしてもらっても」同じなのですが、取引費用のかかる世界ではそうはいきません。ただ、政府の介入にもやはり費用はかかるわけで、それぞれのケースを慎重に検討していく必要があるというのがコースの結論です。


 他にも第7章の「経済学のなかの灯台」では、政府でなければ提供できない公共財の代表例として経済学の本にしばしば登場する灯台について検討しています。
 灯台はそこを通る船すべての役に立つものですが、そこを通る船のすべてから料金を徴収するのは難しいです。ですから、サミュエルソン近代経済学の基本的教科書とされてきた『経済学』の中で、灯台はその料金徴収の難しさ、そして料金を徴収できたとしても灯台を利用する船が増えても灯台を運営する費用は変わらないのだから灯台は政府が運営すべきだとしています。
 ところが、イングランドでは、私的に運用されてきた灯台が歴史的に数多く存在したのです。この論文でコースはそうした例を歴史の中から丹念に拾っていきます。この論文におけるコースの結論は次のようなものです。

 経済学者は、灯台を、政府でなければ供給できないサービスの例として用いるべきではない、と。ただし、この章で意図したのは、灯台業務はいかに組織され資金調達されるべきかの問題ではない。そのためには、もっと詳細な研究を待たなければならない。ともあれ、政府によって供給するのが最善であるようなサービスについて注意を喚起したいと望む経済学者は、もっと強固たる裏打ちをもった例を引合いに出すべきなのである。(237p)


 このように、コースは常に「現実の社会はどうなっているのか?」ということを念頭に思考を進めていきます。
 中でも、その思考が後世に影響を与えたのが、第2章「企業の本質」でしょう。
 「なぜ専門家された交換経済において企業がそもそもうまれてくるのか」(43p)という問について書かれたこの論文では、第5章「社会的費用の問題」と同じく、取引費用に注目して、企業の存在理由を説明します。
 もしも取引コストがゼロであれば、ある事業家は市場でもって必要な資源や人材を調達することができます。例えば新しいお菓子を思いついた人は、その材料や必要な器具だけでなく、それを作る人を生産の度に集め、パッケージングは内職をする人に発注し、営業をアウトソーシングし、さらに経理アウトソーシングすることで、組織に頼らずにやっていけるのかもしれません。
 けれども、普通は人を雇って組織を作るでしょう。現実では作る人も営業の人も経理の人も探してくるのは大変ですし、また集めたとしても、その人たちにちゃんとした技能があるのか?本当に信頼できるのか?といった問題が残ります。もし信頼できないのであれば監視しなければなりません。しかし、その監視にもコストが掛かります。
 ですから、この取引費用を節約するために人びとは企業という組織を作るのです。
  

 このことについて、コースは第3章「産業組織論」の中で次のようにまとめています。

 D・H・ロバートソンが生き生きと描写したように、「バターミルクの桶の中で凝固しつつあるバターの塊のような、無意識の共同作業の大海のなかの、意識的な力という島々」を、われわれは見いだすことができる。企業の外部では、価格が資源の配分を決定する。そうしてその動きは、市場における一連の交換取引を通じて調整される。企業の内部では、このような市場取引は排除され、資源の配分は経営者の意思決定によってなされる。なぜ、企業は、資源配分を価格システムにまかせることができるのに、経営管理機構を設立し維持していく費用を負担しようとするのであろうか。主な理由は、次の点にある。すなわち、市場を利用するにあたっては負担せねばならない費用が存在し、経営管理機構を用いることによってこの費用を回避することができるからである。もし取引が市場を通してなされるなら、妥当な価格はどのあたりになるのかを見つけだすための費用が必要となる。また、各々の市場取引のそれぞれに、交渉し契約をまとめるための費用がかかる。さらに、これらのほかにもその他の費用が存在する。もちろん、企業は市場に面しており、すべての契約を取り除くことができるわけではない。しかし、生産要素の所有者は、同じ企業内で自らと協働している他の生産要素の所有者と、一連の契約をかわす必要はないのである。(70-71p)


 他にも、第4章の「限界費用論争」は短い論文であるにもかかわらず、公共事業を考える上でも重要な観点が出されています。自分の力ではうまく説明できそうもないので詳しい紹介はしませんが、けっこう大事なことを言ってるのではないかと。


 論文集なので硬いといえば硬いですが、特に数式なども出てこないので、経済学を専門的に学んだ人でなくても十分に読めると思いますし、古い論文ながらもここで主張されていることは今なお新鮮です。
 コースの言う「黒板経済学」に違和感を感じている人にお勧めです。


企業・市場・法
ロナルド・H. コース Ronald Harry Coase
4492312021