遅子建『アルグン川の右岸』

 アルグン川とは、中国の内モンゴル自治区とロシアの国境を流れる川のこと。アルグン川は、900km以上にわたりロシアと中国の国境を流れ、シルカ川と合流し、アムール川となります。
 北東へと流れるアルグン川は、その右岸が中国領、左岸がロシア領です。


 この小説では、そのアルグン川の周囲に暮らすエヴェンキ族の暮らしと、そのエヴェンキ族の暮らしが次第に失われていく時の流れが描かれています。
 エヴェンキ族は狩猟やトナカイの遊牧などで暮らす民族で、寒さの厳しいこの地方の森を移動しながら生きています。
 この本の語り手でもあり主人公でもある人物は、20世紀の初めに生まれ、その終わり(明記されている年号としては1998年まである)まで生きているになっても生きている90歳のエヴェンキ族の女性(名前は最後まで出てこない)。
 彼女の語りを通して、厳しい自然やトナカイとともに生きるエヴェンキ族の姿が描かれていきます。トナカイの食べる苔を求めて移動する生活、小さな血縁集団の中での暮らし、神降ろしの舞という不思議な儀式、ロシア人商人や中国人商人との交易など、この小説には民族学的な面白さがあります。


 また、それとともにこの本を貫いているのが歴史の大きな変化です。
 エヴェンキ族はアルグン川の右岸にも左岸にも住んでいたのですが、この主人公が生まれた頃にはロシアと清によってエヴェンキ族の生活圏は分断されています。
 それでもロシア人の商人などが川を越えて活動していたわけですが、1930年代になると満州国が成立し、ソ連領とは完全に分断されいます。さらに、エヴェンキ族のもとにやってきた日本の軍人により、エヴェンキ族の男たちは軍事訓練のために満州の都市へと連れて行かれます。
 しかし、そんな満州国もあっけなく崩壊。日本人が姿絵を消すとともに、今度は中華人民共和国が成立します。
 山林の開発が次第に進み、政府はエヴェンキ族に定住を勧め、教育を受けるように指導します。主人公の孫のイレーナは大学まで進み、画家になりますが、定住を始めた人びとは次第に無気力になり、アルコールに溺れていきます。
 そんな中で主人公は定住を拒否し山に残りますが、エヴェンキ族の一族はゆっくりと、しかし確実に消えつつあります。


 この小説では、エヴェンキ族が民族としての誇りを持ちつつも、歴史の大きな変化の中で徐々にそのまとまりを失っていく様子が描かれています。
 エヴェンキ族は殺されたり強制移住を強いられたりしたわけではありませんが、分断され、徴用され、社会主義のもと定住を勧められ、ゆっくりと民族の生活やつながりが奪われていきます。
 著者は、特に誰かを悪役にするわけでもなく、あくまでもそれを大きな時代の流れの中で淡々と描き出します。
 主人公や他のエヴェンキ族の人々のユーモアあふれる言動などもあり、決して暗い印象を受ける小説ではないのですが、読み進める中でいろいろなものが失われていくのです。
 

 著者は中国・黒竜江省の北極村という中国最北端の村に生まれた漢族の女性。子どもの頃に同じ狩猟民族であるオロチョン族を見たことがあったそうです。1964年生まれということで、作家としては中堅といったところなのかもしれませんが、暖かく冷静な筆致が印象的です。
 

アルグン川の右岸 (エクス・リブリス)
遅 子建
4560090335