ポール・ユーン『かつて岸は』

 白水社<エクス・リブリス>シリーズの最新刊は韓国系アメリカ人作家の短篇集。ポール・ユーンは1980年生まれとかなり若い作家ですが、作風はかなり落ち着いていて、この短篇集でもある種の喪失を静かに描いていくような作品が多いです。
 ただ、この本はたんなる短編の集まりではなく、すべて朝鮮半島に浮かぶ架空の島ソラを舞台としたものになっています。そしてこのソラは明らかに済州島をモデルにしています。連作短編というような個々の作品同士のつながりはないのですが、現在や朝鮮戦争当時の過去を描いた作品などを読むことによって、島の歴史が浮かび上がるような構成になっています。


 表題作の「かつて岸は」、「炎を見つめる顔」、「イドーにかかるランタン」などでは、観光地化された島の姿が描かれていますし、「残骸に囲まれて」では第2次大戦後すぐのアメリカの軍事演習、「木彫師の娘」では朝鮮戦争の脱走兵、「彼らに聞かれないように」では日本の植民地時代の歴史なども描かれています。
 また、「かつて岸は」ではアメリカの潜水艦に衝突された日本の漁業実習船「えひめ丸」の事故が少し形を変えて使われていますし、「イドーにかかるランタン」では2004年のスマトラ沖地震で大きな被害を受けたタイのプーケットから出稼ぎに来ている女性が登場するなど、現代のさまざまな悲劇とのリンクも見られます。


 ただ、こう書くと現在と過去の悲劇を重層的に結んだ作品という印象を受けるかもしれませんが、そういった視点から見るとこの短篇集は明らかに物足りない。
 なんといっても、済州島を舞台にしながら戦後の混乱のなかで島民の5人に1人にあたる6万人が虐殺されたとも言われる「済州島四・三事件」への言及が全くないからです。もし、短編を通じて済州島の島の歴史を浮かび上がらせることが本書の狙いであるならば、この済州島の歴史を一変させた歴史を素通りすることは大きな問題だと思うのです。


 そんな思いを持ちながらこの本を読んでいたのですが、最後から2番めの短編「そしてわたしたちはここに」を読んで少し考えが変わりました。
 この短編の主人公は美弥という女性。関東大震災で震災孤児となりこの島の孤児院に送られてきた過去を持ちます。第2次大戦が終わり、日本の植民地支配が終わった後も美弥は島に残り、朝鮮戦争においては島の病院でアメリカ人の医師のもと看護婦として働いています。
 彼女の記憶の中には孤児院で一緒だった淳平という少年の姿が強く残っているのですが、淳平は途中で孤児院を出てそれ以来行方不明です(アメリカ人女性のエアハート(イアハート)がハワイからカリフォルニア州までの太平洋横断飛行に成功した年とあるのでおそらく1935年のこと)。彼女が島に残っている理由の一つもそれだと考えられます。
 そんな中、病院に頭に包帯をまかれ両目にガーゼで覆われた患者が運び込まれます。彼女はその姿が見えない患者を直観的に淳平だと感じ、献身的に介護していくのです。

 
 すこしマイケル・オンダーチェの『イギリス人の患者』(映画化された題名は『イングリッシュ・ペイシェント』)を思いおこさせるような設定です。実際、少し影響を受けているような気もします。
 ただ、ここでも最初は設定のありえなさが気になりました。関東大震災の日本人の震災孤児が済州島の孤児院に送られるということについては、台湾にも罹災者の避難、移住が相次いだとのことなので(坂野徳隆『日本統治下の台湾』平凡社新書)参照)、ないとは言い切れないですが、その日本人が戦後も島に残って看護婦になるという設定はさすがに無理があるのではないかと思いました。
 しかし、この短編を読み進めていくと、だんだんとそういった設定は気にならなくなっていきます。物語は不吉な陰を帯びていき、最後は「ホラー」と言ってもいいような形になります。そして物語の外部のことは気にならなくなるのです。


 おそらく、最初は著者も済州島の歴史を重層的に描くという目論見があったのではないかと思います。それに個人の「喪失」を重ねあわせようとしたのでしょう。ところが、歴史の中で「喪失」を描こうとすると、それこそ済州島四・三事件のような「巨大な喪失」を描かざるをえず、もはや個人のレベルでは済まない話になっていくはずです。そこで、舞台をソラと呼ばれる架空の島ということにしたのでしょう。
 そして読み終わってみるとこの変更は正解だったと思います。


 というわけで、下手に歴史を知っていると引っかかる部分もあるのですが、なかなか雰囲気のある短篇集ですし、特に「そしてわたしたちはここに」は力のある作品だと思います。


かつては岸 (エクス・リブリス)
ポール ユーン 藤井 光
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