本名純『民主化のパラドックス』

 副題は「インドネシアにみるアジア政治の深層」。
 先月の大統領選挙でジョコ・ウィドドが、スハルト大統領の娘婿で陸軍戦略予備軍司令官をつとめたプラボウォを破ったことで、改めて民主化の定着ぶりをアピールすることになったインドネシア。外から見ると、2004年から2期10年にわたって大統領を務めたユドヨノから、インドネシアの民主制はしっかりと社会に根づいたように見えます。
 

 ところが、著者はそう単純なものではないといいます。 
 スハルト時代に築かれた集票マシーンや、社会の隅々にまで利権の手を伸ばした国軍の力はまだ健在ですし、「プレマン」と呼ばれる日本のヤクザのような存在が社会や政治において大きな存在感を持っています。
 また、相変わらず汚職事件は多発しており、クリーンなイメージで売ったユドヨノ政権のもとでも与党の汚職事件は跡を絶ちませんでした。
 また、ユドヨノ大統領に関しても国際的な評価は高いですが、著者が見るにはあくまでもイメージ専攻の政治家で、大事な所でしばしば決断力のないところを見せるといいます。この本を読む限り、圧倒的に優れた政治家というわけでもなかったようです。


 ただ、そうした問題を抱えながらもインドネシアではクーデターや、民族や宗教をめぐる国を割るような衝突は起きていません。
 長年独裁を続けたスハルトが退陣した直後は、多民族で多宗教のインドネシアがこのまままとまっていくのは難しいのではないか?との観測も出ましたし、実際に東ティモールは独立し、アチェでは紛争、さらにはアンボンではキリスト教徒とイスラム教徒が内戦ともいうべき衝突を繰り返しました。
 しかし、現在のインドネシアでは、表向きはそうした争いは抑えられ、それなりに順調な経済成長が続いています。
 

 これはなぜなのか?
 この本は、スハルト退陣以後のインドネシアの政治を追いながら、この問に関して「民主化パラドックス」という答えを提示します。少し長いですが、終章「民主化パラドックス」に書かれている文章を引用します。

 一方で国際社会のリーダーたちや、経済をみている多くの人たちからは、インドネシア民主化の定着と安定が評価され、他方で批判的な人たちからは汚職や暴力や権力乱用が問題視される。結局、民主化は成功なのか、それとも問題なのか。その答えはどちらにあるのか。
 本書を通じて見えてくるのは、「両方とも正しい」という答えである。言ってみれば、問題が温存されているから安定しているのである。つまり、旧体制からの既得権益を持つ政治エリートたちが、それなりに今の民主主義の政治ゲームを謳歌できているからこそ、それを壊そうという動機を持ちにくく、その結果、今のシステム(すなわち民主主義)が持続して安定しているのである。国軍であれ警察であれ、国会議員であれ地方首長であれ、汚職官僚であれ実業家であれ、皆がそれぞれ、ある程度の権力と利権の分配に組み込まれている今の状況は、システム全体をひっくり返そうという政治勢力を生み出さない。だから安定しているのである。
 逆に言えば、もし、より公正で平等で透明でクリーンな民主政治が強いられ、国軍や警察は違反を厳格に処罰され、政治エリートが汚職で大量に逮捕されるような状況であったなら、インドネシアの民主主義は定着も安定もなかったであろう。権力と暴力と財力を持った人たちの連合体が、そういう政治を妨害するのは明らかであり、スハルト後のインドネシアは不安定が持続したはずである。
 そろそろ私たちは、ここに民主化パラドックスの核心があることに気がついていよう。つまり「安定」と「問題の温存」は対立する展開ではなく、むしろコインの裏表なのである。裏があるから表があり、表があるから裏がある。表の安定を「成功」と言うのであれば、成功のカギは裏であり、それは問題の包摂である。究極的には次のようにもいえよう。旧体制下で影響力を持っていた「非民主的」な勢力の権力と特権を温存できているからこそ、「民主主義」が定着して安定する。これがインドネシアにみる民主化パラドックスである。コインの表側が国際的に評価されるほど、一番喜ぶのは裏側となる。本書を通じてこの力学をリアルに伝えたかった。(200-202p)


 ここでは、「問題の温存」、「問題の包摂」といった言葉が使われていますが、まさにインドネシアでは問題が温存されています。
 例えば、国軍の問題。スハルト政権下で軍は各地に地方軍管区を整備し、中央から村レベルまでの組織を作り上げ、国防だけでなく治安維持や反スハルト運動の弾圧、そしてさまざまなビジネスにまで手を広げました。
 また、スハルトが政権をとったときの九・三〇事件や東ティモールでの独立派への弾圧など、軍による民衆への弾圧もありました。
 この国軍改革というのは、民主化の中で当然問題となり、2000年にはそれまで一体だった軍と警察が切り離され、国内の治安維持に関しては基本的に警察が担うようになりました。他にも、政治の分野から軍の撤退は進み、軍の改革はかなり進んだようにも思えます。


 ところが、国軍が政治家によって完全にコントロールされる存在になったかというと、そうではありません。
 スハルト退陣後に起きた、各地の紛争やバリ島でのテロ事件などを通じて、軍は再び治安維持に関する権限を手に入れ、その存在感を高めているのです。
 2000年前後に各地で起きた紛争や衝突は、むしろ国軍の失地を回復するチャンスであり、場合によっては国軍が紛争を煽ることで、利権を回復させていったのです。
 これについて著者は次のように述べています。

 今の時代、平時には役人や弁護士が訴える「法の支配」が大事であるが、紛争下では「秩序の回復」が何よりも優先されることを軍人はわかっている。その環境に導いていくのが地方軍管区の政治手腕であり、その営みを「治安悪化の政治」と呼ぶことができよう。つまり、国軍は表向きにはスハルト時代の「二重機能」を廃止して政治からの撤退をアピールする一方、「治安悪化の政治」を巧みに地方で仕掛けることで、全国の様々な場所で地方政治を弱体化し、国軍改革を骨抜きにし、ビジネス利権を確保しているのである。(165p)

 そして、ユドヨノ大統領は基本的にこの国軍の問題を「温存」、「包摂」したのです。

  
 また、第6章でとり上げられている「プレマン」の問題も興味深いです。
 先ほど書いたように、プレマンとは日本のヤクザのような存在なのですが、スハルト時代はこのプレマンが軍の別働隊のような働きをし、共産主義者を弾圧し、ジャカルタの裏社会を仕切りました。この本ではこうしたプレマンを「官製プレマン」と呼んでいます。
 しかし、スハルト体制は崩壊し、プレマンの勢力図や仕事も変化します。イスラム系や政党の自警団などさまざまなプレマンが登場し、借金の取り立てや地方分権が進む中で地方政府に食い込みます。


 しかも、軍から分離した警察が弱体だったこともこのプレマンの伸長に拍車をかけました。2002年に制定された国家警察法には、住民による自警団との連携ということが書かれており、さらに警察は自警団や警備会社が行う活動を許可したり、オペレーションを指導する権限を持つとも書かれていました(189p〜191p)。
 これによって起こったのが警察とプレマンの癒着です。警察に食い込んだプレマンは、警察の幹部を抱き込んで警備会社を設立、警察との「ウィン-ウィン関係」を築いていったのです。
 もちろん、警察や政権もイメージは大切なので、プレマンとの「戦争」を宣言したりもしますが、そこで叩かれるプレマンは警察などに食い込めていないプレマンです。
 スハルト政権下での「官製プレマン」はなくなったものの、また別の形の「官製プレマン」的なものが生まれてきているのです。


 このようにこの本はインドネシア民主化の表と裏を教えてくれます。
 そして、最初に長々と引用した文章を読んでもわかるように、著者がこの「問題の温存」や「包摂」を必ずしも悪いことと断定していないのもこの本の大きなポイントです。
 本書の終章でも触れられているように、「アラブの春」の中で民主化が進んだエジプトでは、イスラム同胞団と国軍が全面的に対決し、結局はクーデターによって、選挙で選ばれたムルシ大統領は退陣に追い込まれました。「この民主化の失敗は、パラドックスの力学を無視したために起きた」(205p)とも言えるのです。
 

 インドネシアの民主主義が理想とはまだまだ距離のあるものであることは事実ですが、それでも国民の権利や自由やスハルト時代に比べて大きく改善しました。
 「民主化」が理想だとしても、その過程をどうするかということにこそ実は大きなポイントがあります。この本はインドネシアを例にそのことについて深く考えさせる本です。インドネシアに興味がある人にはもちろん、「民主主義」や「民主化」について考えてみたい人にもおすすめの本です。


 なお、本日、著者がシノドスに先月行われたインドネシアの大統領選挙についての論考を寄せています。こちらもあわせてどうぞ。
 2014年インドネシア政変――ヘビメタ大統領・ジョコウィの誕生と「新しい風」 本名純 / インドネシア政治研究
 

民主化のパラドックス――インドネシアにみるアジア政治の深層
本名 純
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