伊勢崎賢治『本当の戦争の話をしよう』

 国連PKO幹部として東ティモールで暫定政府の知事を務め、シエラレオネアフガニスタン武装勢力武装解除などのあたるなど、紛争の現場を渡り歩いてきた著者が、県立福島高校の高校生たちと「戦争と平和」について考えた本。
 同じ朝日出版社で専門家と高校生が対話を行った本としては、加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」をの選んだ』という名著がありますが、この『本当の戦争の話をしよう』はそれ以上の面白さがありました。


 「高校生との対話」と銘打っていても、「対話」とは言いながら専門家が噛み砕いて説明するだけというケースが多いですし、ましてや、紛争の現場を渡り歩いてきた人間と高校生では、話す側にそういう意識がないとしても「世界の現実を知る人間」と「平和ボケの日本でぬくぬくと暮らす高校生(そしてそれに少し罪悪感を感じている)」という構図になり、結果、説教臭くなるというのが残念なパターンの一つです。


 ところが、この本に登場する高校生たちは東日本大震災福島第一原発事故という未曾有の災害を経験しています。

 看護師だった母は、病院で被災して、その後、亡くなったのですが、それでも妹も生きていて、なんか生きていること自体がすごいことなんじゃないかって。今回の地震原発事故は、他の地域の方のなかでは忘れられちゃうこともあると思いますが、でもやっぱり、生きている私は幸せなんじゃないかと思うんです。(327p)

 これはこの本の中の高校生の発言ですが、こうした経験や考えを持っている人間に対して、「君たちは本当の世界を知らない」みたいなことは到底言えないでしょう。
 この本では、著者の伊勢崎賢治がそうした高校生に対して緊張感を持って接しています。そして、その緊張感がこの本の面白さと、「戦争と平和」に対するより深い思考を生んでいます(『それでも、日本人は「戦争」をの選んだ』は、高校生との応答部分をカットしても十分に面白い本だと思いますが、この『本当の戦争の話をしよう』の場合、高校生との応答部分をカットしたら魅力が半減してしまうでしょうね)。


 この本のもう一つの大きな魅力は著者が自分の手が「汚れている」ことを隠さずに打ち明け、その上で対話を行っていることです。


 「平和」のシンボルとして「白い鳩」が用いられるように、「平和」とは「絶対的な無垢」のようなものとして捉えられがちです。
 「平和」というのは厄介なもので、すべての人が満足する「平和」というものをポジティブな形で打ち出すことは困難です。だから、とにかく「平和的でないもの」を否定するすることで、「平和」という概念を確保しようということになりかねません。
 そして、日本の護憲派の中にもそういった思考の人がいると思います。
 この「平和」を純白なものとみなして、自衛隊などの戦争に関わるものを「ケガレ」とみなすような発想は根強くありますが(「金八先生」の卒業生が自衛隊に入ろうとするのを寄ってたかって止めるエピソードとかがまさにそれ)、これこそ「平和」についての議論を不毛なものにする要因の一つです。


 ところが、この本では著者が「平和」を守れなかった、「平和的ではない手段」を使った過去を正直に話しています。
 第1章では、東ティモールの知事時代に仲間の兵士が殺されたことに対してニュージーランド軍の武器使用基準をゆるめたところニュージーランド軍が武装集団を殲滅してしまった話が紹介されていますし(90-91p)、第2章では、シエラレオネで治安を守るために自警団を組織したものの、徐々に自警団が暴走しよそ者を焼き殺してしまう光景を目撃したことを打ち明けています(178-184p)。
 また、『武装解除』で語られていたアフガニスタンにおける武装解除についても、武装解除自体はうまく行ったものの、選挙などの日程からアフガニスタン軍が充実する前に武装解除を進めてしまい、結果的に「力の空白」を生み、それがタリバンの台頭を招いたと認め、「確実に僕は、この戦争を泥沼化させた戦犯のひとりですね」(359p)と口にしています。


 このような話を聞くと、「だから「非軍事」でなければダメなのだ」、「アメリカ主導ではダメなのだ」、「あくまでも現地の人々が主体的に動くのをサポートするものでなければダメなのだ」といった声が聞こえてきそうです。
 確かにこれらは「正論」です。しかし、「正論」がそのままでは通用しない「現実」もあります。
 著者も関わっていたシエラレオネの内戦、第3章で取り上げられているルワンダの事例などは、主導権を現地の人々に持たせて「非軍事」の援助に徹すればどうにかなったものではありません。誰かが手を汚さなければ悲劇を食い止めることができなかった事例です。


 ただ一方で、著者は「だから力が必要なのだ」、「最終的に物事を決めるのは軍事力なのだ」というように「リアリスト」ぶることもありません。

 とにかく、「軍事=男らしい、非軍事=女々しい」という精神構造は、どんな虐殺行為も武勇伝にする野蛮さと同一線上にあるものだし、こういうもので政治を動かそうという考えは、本当に幼稚だと思う。軍事を男気で語るアホな論調に挑戦するために、「女々しい」なんて性差別的な言葉をあえて使いました。許してね。(237p)


 このように語る著者のスタンスは「現場主義」とも言えるものですが、「現場主義」というスタンスをとったからといって答えが出るわけではもちろんありません。
 現場でいろいろな理念と現実との板挟みになりながら、その板挟みの中で理想を失わないようにする、この難しい態度を著者は何とか守ろうとし、そしてこの本でそれを高校生たちに伝えようとしています。


 個人的に強く印象に残ったのが第4章の「戦争が終わっても」なのですが、その章の終わりで著者はシエラレオネの少年兵のその後について語っています。
 シエラレオネの内戦では子どもたちが拉致された上に、洗脳や麻薬によって少年兵に仕立てあげられ大人顔負けの残虐さを発揮しました。中には司令官となって大人たちを指揮した少年たちもいたそうです。
 内戦が終わると、反乱軍は武装解除され、司令官たちは処罰されたわけですが、問題となったのがこの子供司令官です。結局、ユニセフなどの介入によって、彼らは「子ども」としてその人権を尊重され、扱われ処罰されたり、隔離されたりすることはありませんでした。
 このことについて、著者は次のように述べます。

 「人権」は、シエラレオネにおいて、内戦という非日常をつくったのはすべて大人の責任と結論し、大人兵士と同等、もしくはそれ以上に残虐な行為をはたらいた子供兵士を、大人兵士のようにランクによる区別をせずにすべて赦し、というより、その犯罪を問題にすらせず、ふつうの子供たちより手厚く保護しました。さらに。教育上の理由で彼らを一般児童から隔離することも、それは強制収容所になり、子供の自由を制限すると否定した。子供の人権は、完璧に守られたといえるでしょう。
 一方、僕たちは子供たちに、確実にひとつのメッセージを送ってしまいました。「ひとり、ふたりを殺すと殺人罪に問われて死刑にもなる。しかし、千人単位で殺せば国際紛争という扱いになり、許されるだけじゃなく恩恵までもらえる」と。(321p)

 人権が尊重される戦後をつくることが大切なのは当たり前ですが、目指すべきは、それがあって当然と、人権にその社会を支配させようとするのではなく、その場、その時に合った人権をつくってゆくことだと思うのです。
 人権は、僕たちの正義のなかで最も強い、人類全体のゴールとしてあるべきものと考えられているので、今言ったことが広く理解を得るのは難しいでしょう。でも、頭の片隅でもいいから、これをすこしでも気に留めておけば、人権に悖る敵、もしくはそのように喧伝される敵が現れたとき、必要以上にコテンパンにしちゃうことを防げるような気がするのです。(322p)

 
 この、簡単に答えの出ない現場で答えを考え続けるということは、おそらくこの本のもうひとりの著者である福島高校の高校生の立場と重なるものかもしれません。
 放射性物質の恐怖を絶対視することは間違っていますが、同時にそれを全く気にしないことも間違っているでしょう。その場、その時に合わせた対処を常に考えていかなければなりません。
 そういった意味で、この高校生たちは著者の現場の悩みを理解できる立場にいるのだと思います。そして、それがこの本の内容を非常に豊かなものにしてます。
 また、話題となっている集団的自衛権についてもわかり易く解説してありますし、国連を中心とする安全保障体制などについても学べる本です。
 幅広い人におすすめしたい本です。


本当の戦争の話をしよう: 世界の「対立」を仕切る
伊勢崎 賢治
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