『KANO 1931海の向こうの甲子園』

 見逃していたけど、たまたま通り道だった本厚木のアミュー厚木という所でやっているのを知って見てきた。
 3時間超えの映画でさすがに長いんだけど、ドラマとしては非常に良く出来ていて、なんだかんだで観客を引っ張る力がある。
 長い1つの理由は、日本のマンガ・アニメの演出を取り入れているからで、試合のシーンにおいては、実際の試合に展開をラジオ実況を使って逐一説明しつつ、スタンドの応援、さらにはその試合を見る(聞く)今までに出てきた登場人物を絡ませる。日本のアニメの引き伸ばし演出をもろに取り入れたやり方で、当然ながら時間を食うわけで、スタイル以外の何物でもないんだけど、それでも決勝戦はダレずに見せるし、物語が最後まで失速することはない。


 思い返してみるとけっこう不思議な映画で、見る前に聞いていた「日本人・漢族・原住民の民族を超えた混成チーム」的な話は思っていたよりも前面に出ていなかったし、1944年の戦争中の台湾を描いたシーンでもっと日本の植民地支配への批判的な視点が出てくるのかと思ったらそうでもない。
 また脚本も、話のメインの筋からすると、選手の中の主人公的存在であるエースの想い人のその後とか、大沢たかお演じる八田與一とか、削ってもいいんじゃないかと思える部分がけっこうありました。


 それでも、なんだかんだで3時間見せる。その見せる力の核になっているのが「ノスタルジー」。
 この映画には、いたるところに「ノスタルジー」を刺激する仕組みがあって、それが物語を推進する力になっている。そしてその「ノスタルジー」というのは観客の中にある実在の記憶ではなく、多くの人が体験もしていないのに感じてしまうもので、例えば、嘉義の街の風景だったり、台湾南部の田園だったり、初恋の人との自転車の二人乗りだったり、他の学校との喧嘩騒ぎだったり、八田與一の「プロジェクトX」的な偉業であったり。
 もちろん、日本人の観客は嘉義の街や台湾南部の田園風景を知らないわけですし、他の学校の生徒とと集団で喧嘩騒ぎを起こしたという人も急速に減ってきているでしょう。そして、おそらく台湾の人々もこの映画の風景や出来事を実際に知っているわけではないでしょう。


 しかし、人は自分が経験もしていないことにも「ノスタルジー」を感じてしまうわけで、その「ノスタルジー」の刺激の仕方がうまい作品なんだと思います。
 この『KANO』を見て、少し思い出したのが新海誠の『秒速5センチメートル』。あの映画は非常に繊細で美しい絵へのこだわりがある一方で、主人公の周囲の環境とか経歴に関しては奇妙なまでにスカスカだったわけですが、この『KANO』もちょっとそういうところがある。
 例えば、アミ族の1番打者・平野保郎あたりの境遇なり家族なりをもっと描くことで当時の台湾社会の複雑な民族関係などを掘り下げることもできたと思うけど、そういう部分は掘り下げない。この映画が力を込めて描くのは「すでに失われた青春の1ページ」であり、「自分の人生にあればよかった青春の1ページ」。
 そしてその青春の1ページの舞台として、日本によって植民地として支配されていた1930年前後が選ばれている所に台湾の複雑な歴史がかいま見える。


 というわけで、この映画が日本や台湾でウケるというのはわかりますし、自分も面白く見れました。
 そして、日本と台湾以外でこの「ノスタルジー」の感覚が共有されるのか?ということを知りたくなりました。


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