カズオ・イシグロ『忘れられた巨人』

 カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』以来10年ぶりとなる新作は、奇妙で語りにくいけど、やはり面白くしっかりとした読後感を残す小説。
 6世紀頃のイングランドを舞台に、ブリトン人のアクセルとベアトリスという老夫婦を主人公にして物語が始まるのですが、村を出て息子に会いに行こうとするこの老夫婦の記憶や行動がとにかく曖昧で、「これは一種の老人小説なのか?」といった印象で幕を開けます。
 また、アクセルが自らの妻であるベアトリスのことを「お姫様」と呼ぶあたりからも、微笑ましいというか耄碌しているというか、そういう感じが漂っています。


 しかし、物語は若い騎士のウィスタン、鬼に襲われた少年エドウィン、そしてアーサー王に仕えていた老騎士ガウェインの登場によって完全なるファンタジーの世界へと突入していきます。
 『わたしたちが孤児だったころ』でミステリーの世界へ、『わたしを離さないで』でSFの世界へと越境したカズオ・イシグロなので、ファンタジーの世界へと越境するのに何ら不思議なことはないのですが、それにしても鬼や竜の出てくる完全なファンタジーの世界を描くとは思いませんでした。


 物語が進むにつれ、老夫婦の記憶の曖昧さは、老化のせいではなく、ブリテン島を包む霧のせいであり、その霧の原因は竜のクエリグの吐く息にあることがわかってきます。また、アクセルは単なる老人ではなく、アーサー王にも関係する人物だったらしいのです。
 この霧を断ち切ることが、失われた記憶を取り戻すことにつながるらしいのですが、失われた記憶にはアクセル夫妻の思い出や息子の姿だけではなく、ブリトン人とサクソン人の戦いの記憶もあります。
 こうしてこの小説は「記憶と忘却」という極めて現代的なテーマを抱えながら進んでいくことにもなるのです。


 最後にはタイトルにもなっている「忘れられた巨人」という言葉の意味が明かされ、老夫婦の物語から始まり、国の運命を決める話にまでなった物語は、もう一度老夫婦の物語へと回帰します。
 この物語の切り方が何とも絶妙で、深い余韻を残します。カズオ・イシグロの巧さに脱帽といった感じですね。


忘れられた巨人
カズオ イシグロ Kazuo Ishiguro 土屋 政雄
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