ジェームズ・J・ヘックマン『幼児教育の経済学』

 ノーベル経済学賞受賞者のヘックマンが、就学前の教育効果が非常に高いことを実証的に示してみせた本。
 「本」と書きましたが、実際に中心になっているのは40pほどの論文で、それに対する10人の学者のコメントとそれに対するヘックマンのリプライ、さらに日本の現状についても触れた経済学者の大竹文雄の解説からなっている、120pほどのものになります。


 ヘックマンの専門は労働経済学で、その研究の中で成人に対する職業訓練やマイノリティの大学進学のための補助政策などの効果が低いことに気づき(効果が無いわけではないが費用の割には効果は薄い)、就学前の教育こそがもっとも効果が高い(少ない予算で大きなリターンを得ることができる)と結論づけました。
 アメリカでは、就学前の子どもに対して教育的介入を行ったペリー就学前プロジェクト、アベセダリアンプロジェクトに関して長期にわたって追跡調査が行われ、このうちペリー就学前プロジェクトでは40歳まで追跡調査が行われました。その結果、これらのプログラムを受けた児童は受けなかった児童に比べて、学力検査や学歴が良かっただけではなく、40歳時の年収や持ち家率が高く、生活保護受給率や逮捕率は低かったそうです。
 つまり、これらのプロジェクトは単純に学力向上に役立つだけでなく、大人になってからの生活の質を引き上げる効果があったのです。ヘックマンはペリー就学前プロジェクトの利益率は控えめに見て年6%〜10%で、もっと上の年齢を対象とした教育プログラムや、成人への職業訓練などよりも明らかに高いとしています。


 この結果に、「やはり幼児の脳は柔軟でいろいろな知識を吸収できるからなのか」と思う人もいるでしょうが、ヘックマンが重視するのは、IQに代表される認知能力よりもむしろ、「肉体的・精神的健康や根気強さ、注意深さ、意欲、自信」(11p)などの非認知能力です。
 この本では、アメリカの男性の高校卒業率が近年低下しているということを指摘する中で、数字上はこれに合格すれば高校課程を終了したものと同等の学力を有すると認定されるGED(一般教育修了検定、日本の大検みたいなものか)が含まれているために高校卒業率は低下していないが、GED合格者の収益力は高校中退者とあまり変わらないし、刑務所でのGEDの取得が再犯率を低下させないといったことが指摘されています。
 GEDを取得しても非認知能力が伸びるわけではなく(もちろんGEDの取得によって自信を得られるといった効果までは否定出来ないでしょうが)、知識だけではなかなか生活の質の向上までにはつながらないということかもしれません。


 そして、ヘックマンは論文を「再配分でなく、事前配分を」という主張で締めくくっています。大人になってから再配分をするよりも、幼児の段階で教育に関する公的支援をしっかりとしたほうがはるかに効率的だというのです。
 もちろん、このヘックマンの主張には反論もあって、この論文に続く10人のコメントは基本的に幼児教育だけを特権化するヘックマンの考えや、「何をもって人生の質が上がったといえるのか?」といった疑問などで占められています。
 これらの指摘には、それなりに説得力があるものもありますが、ヘックマンの論文を根底から覆すような力はないと思います。


 このように短いながらも非常に重要な事が書いてある本なのですが、実際に幼児を育てている親の立場として読むとけっこう怖い本でもあります。
 「非認知能力が重要」とは言っていても、「その中でもどの能力が重要なのか?」とか、ペリー就学前プロジェクトでの具体的に効果のあった教育といったことは書かれていません(おそらく今の調査ではそこまではわからない)。つまり、幼児教育に対する答えが書いてある本ではないのです(例えば、母親がつきっきりで読み聞かせなどをするのと、保育園などで集団生活をさせるのとどっちがいいのか?とかは気になる人も多いはずですが、そういう具体的な答えは書かれていません)。
 あと、この内容であればハードカバーにする必要はなかったのではないかと。ソフトカバーにして少しでも値段を下げたほうが良かったような気もします。
 とりあえず気になった人は、大竹文雄の解説がよくまとまっているので、とりあえず本屋で目を通すと良いと思います。


幼児教育の経済学
ジェームズ・J・ヘックマン 古草 秀子
4492314636