教育というのは日本人の誰もが受けるものです。ですから、会社経営者やアスリート、文学者、大学教授としての経験をもった人は少ないですが、教育を受けた経験のない人というのはほとんどいません。そして、誰もが自分の受けた教育に関して、「あれは良かった」とか「あれは無駄だった」といった思いを持っていることでしょう。これは当たり前のことです。
しかし、国の政策として教育を考える場合はどうでしょう? 教育を受けた経験があるといっても、高卒の人は大学教育を知りませんし大卒の人は大学院の教育を知りません。また、私立の中高一貫校の人は公立の中学の様子は知りません。教育についての経験というのは、「公教育」のほんの一部なわけです。
ところが、今の日本では個々人の経験とそこからくる思い込みが教育んついての「意見」として幅を利かせており、そうした「意見」と会社経営者やアスリートや文学者、大学教授らが集められた審議会によって教育についての政策が決まっていくことになります(もちろん、「意見」や審議会の調整を文科省が行っているわけですが)。
こうした状況に対して、あくまで「エビデンス」(科学的な根拠)にもとづく政策の推進を主張し、アメリカを中心とした各国で行われた様々な実験にもとづくエビデンスを紹介しているのがこの本。
同時に「ご褒美で釣ってはいけない」、「ほめ育てはしたほうがよい」、「ゲームをすると暴力的になる」といった俗説をエビデンスに基づいて検討しています。
目次は以下の通り。
第1章 他人の”成功体験”はわが子にも活かせるのか?
- データは個人の経験に勝る
第2章 子どもを”ご褒美”で釣ってはいけないのか?
- 科学的根拠に基づく子育て
第3章 ”勉強”は本当にそんなに大切なのか?
- 人生の成功に重要な非認知能力
第4章 ”少人数学級”には効果があるのか?
- エビデンスなき日本の教育政策
第5章 ”いい先生”とはどんな先生なのか?
- 日本の教育に欠けている教員の「質」という概念
先日紹介したヘックマンの『幼児教育の経済学』と同じ流れの中にある本ですが(この本の中でも何回かヘックマンの研究がとり上げられている)、こちらのほうがより幅広いトピックを取り扱っていますし、日本の事例への言及も豊富です。また、文章としても読みやすく、ふだん社会科学系の本を読んでいない人でも興味を持って読めると思います。
ここでは、この本の良い点と、個人的にちょっと注意すべきだなと思った点を紹介したいと思います。
まず、良い点ですが、「エビデンス」ということが何なのかということを、現在、もっとも信頼できるエビデンスであると言われている「ランダム化比較実験」の方法を紹介しながら説明している点です(「ランダム化比較実験」は『貧乏人の経済学』でも貧困を解決するための大きな武器として紹介されていた)。
例えば、新聞などで「朝食を食べないこの成績は低い」といったデータが良く紹介されます。
それならば、朝食を食べていない子ども朝食を食べるように言えばその子の成績は上がるのでしょうか?
そうとは限りません。「朝食を食べる/食べない」というのは、その子の家庭が朝食を用意しているのか、家庭の収入などに依存しており、朝食というよりも家庭状況が成績に影響を与えている可能性が高いからです。
では、どうすれば本当の「朝食と学力の関係」が測れるのか?
一つの方法が「ランダム化比較実験」です。朝食を食べる子と食べない子をランダムに割り振り、一定期間「朝食を食べる/食べない」ということをしてもらって学力検査をすれば、家庭状況ではなく、朝食が学力に与える影響がわかるはずです。
この本の補論では、この「ランダム化比較実験」の方法と重要性を説明しながら、それを補う「自然実験」についても紹介しています。このあたりは教育に興味がない人にも役立つものだと思います。
(「朝食を食べる/食べない」という実験は倫理的に問題があるのでは? と思った人も多いと思いますが、この方法の問題点の一つがそれ。アメリカではかなり踏み込んだ実験がなされていますが、日本では教育現場での躊躇などもあってなかなか広まっていない。この本では「問題児が周囲に与えるの影響」を調べるために、「女子のような名前をつけられた男子は、その名前をからかわれるなどしていじめられた経験を持つため、問題行動を起こしやすい」という事実に注目したアメリカのフィグリオ教授の研究が紹介されていますが、これはひどくないか? と思いました)
この本では、こうした「ランダム化比較実験」の手法などを用いてわかってきた、幼児教育の重要性、学力以外の非認知能力の重要性(ヘックマン『幼児教育の経済学』参照)、教員の質の上げ方、限られた予算内での子どもの貧困への対処法などが紹介されています。
ここは教育に関わる人に広く読まれるべき内容でしょう。
次に、個人的にちょっと注意すべきだなと思った点について。
この本では子どもの年齢にあまり注意が払われていません。例えば、「ほめ育てはしたほうがよい」という言説に対して、アメリカでの子どもの自尊心を高める取り組みはあまり効果があがっていないという実験結果から否定的な結論を出しています。
ただ、ここでの実験対象は高校生や大学生であり、例えば、就学前の幼児で同じ結論が出るとは限らないでしょう。この本から「子どもを褒めて育ててはいけない」というメッセージを受け取って、それを機械的に適用するのは危険です(逆になんでも自尊心に結びつけてしまう言説に対する解毒剤にはなっていますが)。
この本に書かれていることを過度に普遍化するのはよくないと思います。
もう一つはこの本でとり上げられている実験の多くがアメリカ、またはアフリカ諸国などの途上国で行われている点です。
日本とこうした国では教育を取り巻く環境や文化が違います。ですから、これらの国々で得られた知見が日本にも当てはまるとは限りません(本書の中でも著者は日本のデータに基づいたエビデンスが必要と指摘している)。
また、この本を読むとアメリカの研究の進み具合に驚き、「それに比べて日本は…」と思ってしまうのですが、子どもの学力という点ではアメリカよりも日本が優っています。
これはOECDが行っている学力検査・PISAの2012年のものの順位ですが、Mathematics(数学的リテラシー)、Reading(読解力)、Science(科学的リテラシー)、いずれも日本がアメリカを上回っています。
(http://www.businessinsider.com.au/pisa-rankings-2013-12 より)
だから日本はアメリカに学ぶ必要はない、とはいいませんが、とりあえず日本の教育のほうが「学力の向上」に限って言えば成功している面もあるわけで、日本でのきちんとした検証なしにアメリカの知見を闇雲に取り入れるのは少し危険だと思います。
ただ、それでも個々人の思い込みによる教育への政策提言よりは圧倒的にマシなわけで、この本が広く読まれることを期待したいです。
「学力」の経済学
中室 牧子
こちらはキンドル版
「学力」の経済学
中室牧子