三谷博『愛国・革命・民主』

 明治維新の研究などで知られる歴史学者の三谷博が、日本の近代化の経験をひろく世界史の中にあてはめて考えようとした本。世田谷市民大学での講義がもとになったものですが、非常に内容の濃いものになっています。
 講義は全6回で、それぞれ「愛国 一」、「愛国 二」、「革命 一」、「革命 二」、「民主 一」、「民主 二」となっています。
 基本的には明治維新の経験を他国との歴史の中の比較で考えるというものですが、現在の中国に対する言及も随所にあり、アクチュアルな内容にもなっています。


 「愛国 一」では、まず近代日本の歴史がもたらした死者の数から考察を始めています。維新期とその後の混乱の中、日本人同士の争いで殺された人が役3万人、一方で台湾や朝鮮などにおける帝国臣民化の過程の中で6万1千人以上、対外戦争での犠牲者は少なくとも1千万人にのぼると考えられています。つまり、圧倒的に「外国人」を殺しているわけです(18ー25p)。
 この要因となっているのがナショナリズムです。三百近い諸藩に分かれていた江戸時代から、明治になると一気にナショナリズムが成立し、その力は外へと向かいます。この「一気に成立した」というのが日本の特徴で、明治維新の犠牲者の少なさの原因でもあります(フランス革命では60万人近い人が犠牲になっている)。
 

 一方、中国や朝鮮ではナショナリズムの成立は遅れました。中国では1842年にアヘン戦争に敗れましたが、支配層の中でナショナリズムが高まったのは日清戦争に敗北した後、ナショナリズムの庶民への浸透となると、日中戦争を待たなければなりません。
 なぜ、日本ではナショナリズムの成立が早かったのか?
 著者はキリシタンの禁止と鎖国による、外国勢力やそれにつながる者を「裏切り者」として排除する姿勢、そして、18世紀後半から広がった村芝居による共通言語の獲得といったものを指摘しています。この共通言語の広がりが、その後のナショナリズムをはらんだ政治運動を用意したのです。


 「愛国 二」では、前半では中国でのナショナリズムがいかに成立したかということいついて、日清戦争、さらに海外民の存在を指摘しています。中国からは多くの移民がアメリカなどに渡りましたが、彼らの境遇は厳しいもので数多くの差別も受けました。南アフリカで差別を受けて独立運動へと目覚めたインドのガンディーを引き合いに出しながら、中国の移民とそれへの排斥が中国のナショナリズムを生むきっけかとなったというのです。
 また、中国と日本のような、かつての中心国と周辺国との関係を「忘れえぬ他者」という概念で説明しようとしています(個人的には、あまりになんでも説明できてしまう概念のような気もしますが)。


 「革命 一」では、世界の革命の中での明治維新の「収まりの悪さ」から話を始めています。
 明治維新は身分制の解体という大きな変化をもたらしたものでもあるにも関わらず、世界史的に見て「革命」と扱われないことが多くあります。これは明治維新という名前自体が「Meiji Restoration」と訳されるもので、「Restoration」=「復古」という言葉を使っていることに理由の一端があります。
 しかし、革命において「復古」の理念が用いられることがは多く、「復古」という過去を参照する現状否定は歴史のなかでよく見られる姿だといいます。「復古」は「保守」とは違い、現状打破を目指す旗印にもなるのです。


 「革命 二」では、これという決定的な要因が見つからない、「明治維新がなぜ起こったのか?」という問いに対して、複雑系やカオス理論などを使って答えようとしています。ちょっとした変化が大きな変化をもたらすカオス理論、このカオス理論が歴史にも適用可能であり、明治維新はそれによって説明されるというのです。
 著者は、鎖国体制が硬直化していたところに(スペインやポルトガルやイギリスの来航を許さないという政策が、松平定信によってオランダ、清、朝鮮、琉球以外位はダメと変えられてしまった(210ー211p))、ペリーがやってきて、その硬直化した部分に受けた衝撃が、将軍継嗣問題などの問題や、当時の日本に広がっていた尊王攘夷思想とあいまって、「乱れ」が増幅されていったと考えています。
 そして、その中で「人材登用」→「公議」→「王政復古」→「廃藩」という「間接的アプローチ」によって、近代国家が成立していくことになるのです。

 
 「民主 一」では、民主政治というものと民主化へのアプローチを考察しています。
 アメリカは世界各地で「民主化」を進めようとしていますが、なかなかうまくいっていません。著者はここでも民主化には歴史を踏まえたアプローチのある方があるはずだとし、日本の経験を分析しています。
 「公議」や「公論」といった言葉は中国の言葉であり、日本ではそういった意味で民主化につながるような考えは見られませんでした。しかし、著者は江戸時代の日本には「「官」内部の決定手続き」、「「民」のなかの文芸的公共圏」という2つの「初期条件」があったといいます。
 まず、「「官」内部の決定手続き」ですが、幕府や藩の内部では主君がリーダーシップをとって物事を決めるのではなく、「起案→決定→裁可」というボトムアップ型の意思決定がなされていました。まずは政策を家臣が起案し、それを重臣が決定し、最終的に主君が裁可を与えるという形です。日本に「法の支配」はありませんでしたが、違った形の正当性を重視する「手続きの支配」はあったのです。
 次に「「民」のなかの文芸的公共圏」ですが、これを代表するのが私塾です。江戸時代の後期になると数多くの塾がつくられますが、そこには広瀬淡窓の咸宜園のような身分を問わずに生徒を受け入れる塾がありました。咸宜園には、学歴、身分、年齢を問わないという「三奪法」の教えがあり、そこから身分を問わずに討論をする文化が生まれていったのです。


 最後の「民主 二」では、明治維新における民主化の過程が説明されています。
 ペリー来航時に老中の阿部正弘が全国の大名に意見を求めたことから、「公論」が開かれ、それが志士たちの活躍につながっていきます。詳しい著者の分析については本書を直接読んで欲しいのですが、注目したいのは著者が「公論」と「暴力」の親和性を指摘しているところです。

 私は長い間幕末史を研究し、史料の上で目にしていたはずなのに、大事なことに気づかなかった。それは、公論と暴力はとても仲が良いという事実です。つまり、今の政治はおかしい、批判し、改めねばならないと思ったときに、人は、これは正しいことなのだから多少の暴力は使っても構わないと思いがちなのです。あえて言えば、これが普通なのかも知れません。むしろ、公論と暴力が切れている方が珍しのではないでしょうか。公論はどうしたら暴力と手が切れるのか、それが肝腎の問題だと、かなり後になって気がついた次第です。(302ー303p)

 実際、幕末の尊王攘夷運動は暴力の塊とも言っていいものでしたし、中国の文化大革命などは公論と暴力が手を結んだ好例です。
 ところが、尊王攘夷運動で荒れ狂った暴力は、西南戦争を機にあっさりと退潮していきます。もちろん、自由民権運動の激化時間などもあるわけですが、政府も弾圧にはある程度抑制的で、国会開設を約束し、民主化へと軟着陸していきます。
 著者はこのあたりの政府の動きを「歴史への見栄」といった概念で説明していますが、個人的にはもう少し何かがあるような気もしますね。


 このようにかなり読み応えのある本です。現代の政治や経済への言及については首を傾げる部分もあるのですが、明治維新を世界の他の歴史との比較で論じていく著者の話は、現代の世界を考える上でもいろいろなヒントを与えてくれるものになっています。また、明治維新に興味がある人にも当然お勧めです。
 

愛国・革命・民主:日本史から世界を考える (筑摩選書)
三谷 博
4480015779