小林道彦『政党内閣の崩壊と満州事変―1918~1932』

 大正期における政党内閣制の確立から五・一五事件による政党内閣の終焉までの政治と軍の関係を丹念に描き出した本。膨大な量の1次史料にあたっており、265ページの本文に100ページ以上の注がつくというバリバリの専門書になりますが、そうした史料の中から立ち上がってくる政軍関係の歴史は、今まであったいくつかのイメージを覆す新鮮なものです。
 目次は以下のとおり。

はじめに――研究史の整理と課題と設定
序 章 政党による陸軍統治
 1 政党政治と山県没後陸軍
 2 政党政治と中国政策

第Ⅰ部 二大政党制と陸軍統治の動揺
第一章 田中政友会と山東出兵
 1 政党による攻略出兵―第一次山東出兵の迷走
 2 田中陸軍支配の崩壊
第二章 相対的安定と破局への予兆――浜口雄幸宇垣一成
 1 つかの間の安定―浜口内閣と陸軍
 2 均衡の崩壊
 補論 クーデタから「憲政擁護」へ―宇垣一成永田鉄山と三月事件

第Ⅱ部 政党政治と陸軍統治――その同時崩壊
第三章 政党内閣と満州事変
 1 危機の発生―満州事変の勃発
 2 事態の混迷
 3 政党内閣の反撃
 4 逆転―第二次若槻内閣の崩壊
 5 協力内閣運動のメカニズム―政友会と満州事変
第四章 政党内閣の崩壊
 1 犬養内閣と陸軍
 2 第一次上海事変の勃発
おわりに――一九三五〜三六年・陸軍統治システムの解体


 このように通史的な形で政軍関係を詳細に記述しており、すべての内容をまとめて紹介するわけにも行かないので、ここでは個人的に興味をもった部分をいくつかとり上げて紹介したいと思います

 昭和の政軍関係のスタート地点をつくり上げたのが田中義一。しかし、内閣を組織したあと、山東出兵などでやや軽率な判断をし、張作霖爆殺事件の処理を巡って昭和天皇に叱責されて辞職に追い込まれた経緯から、あまりよいイメージを持っていない人が多いでしょう。
 しかし、田中は原敬に信頼され、また、政党内閣時代の到来に備えて軍を改革しようとした人物でもあり、陸軍時代の動きを見ると、田中をたんなる山県閥の最後の人材として処理することはそぐわないような気もします。


 この本では、田中はまずは陸軍の中で陸軍大臣に権限を集めようとした人物として描かれます。陸軍には陸軍省参謀本部があり、軍政を陸軍省が、作戦を参謀本部が担当する形になっており、参謀本部の権限は「統帥権の独立」によって守られていました。しかし、大正期になり政党勢力が力を増すと、政党側から「参謀本部廃止論」が出るなど、陸軍は押され気味でした。
 そこで田中は、積極的に原に協力しながら、参謀本部の解体を阻止しつつ、その権限を陸軍大臣に集中させようとします。田中は陸軍大臣として「軍政優位」の体制をつくりあげ、参謀本部にいた上原勇作らのグループを抑えこむことに成功します。


 こうして陸軍を掌握した田中が目指したのは、政党勢力と陸軍を一身でコントロールするという今まで誰も成し得ていないポジションでした(山県は政党には近づきませんでしたし、桂太郎はチャレンジしたものの大正政変で挫折しています)(48ー49p)。
 1925年に田中は政友会の総裁に就任し、1927年に首相となります。陸軍は宇垣一成との良好な関係もあって依然として田中のコントロール下にあり、田中の野望は叶うかに見えました。


 しかし、ここには問題点が2つありました。1つは田中が政友会の内部を掌握しきれなかったことです。田中は入党とともに司法官僚の鈴木喜三郎、政商の久原房之助を引き入れ、さらに森恪や鳩山一郎らを重用しますが、いずれも保守的な人物で、自由主義的な政友会の古参の党員とは相容れない人々でした。田中の政策や外交はこの政友会内部の乱れによってブレを見せるようになっていきます。
 2つ目は昭和天皇との関係です。「田中がその野心を実現するためには、天皇との良好な関係は必須の政治的条件だったはず」(49p)ですが、最終的に田中はこの天皇との関係において躓くことになるのです。
 

  • 森恪について

 田中内閣の対中国強硬外交を引っ張った人物として名前が上がるのが外務政務次官の森恪です。田中内閣では専任の外相を置かなかったため(外相は田中が兼任)、森のポジションは重要でした。
 対中融和を掲げる幣原外交に不満を持った陸軍が、陸軍の意思を代弁する田中内閣のもとで山東出兵などの対中積極主義に走ったというのがわかりやすい見取り図ですが、この本によると自体はもっと複雑です。
 田中はこのあと民政党の濱口内閣で蔵相となる井上準之助を外相に据えようと考えていました。この狙いはアメリカの金融界に人脈のある井上を外相にすることで、満州アメリカ資本を導入し開発を行うということにあったようです。また、外務省に基盤のない人物を外相に据えることで田中自らが外務省をコントロールしやすいと考えたようです(54-55p)。
 しかし、この人事は実現せず、田中は外務省の幣原閥を抑えるために自らが外相になります。そして、この人事には外務政務次官の森の突出を抑えるという意味合いもありました(56p)


 前にも述べたとおり、養子として総裁になった田中の基盤となったのが鈴木喜三郎や森といった官僚派でしたが、彼らは「支那赤化」の脅威を感じており、その中心人物であった森は東方会議をリードしました。
 しかし、政友会内部の対立から田中−鈴木−森のラインは政治的に追い詰めれられます。森の強硬姿勢もブレ始め、第一次山東出兵はゴタゴタしままに終わります。1928年の総選挙で政友会は思うように支持を伸ばせなかったことから、内相の鈴木は辞任に追い込まれ、田中の党内支配はますますゴタゴタします。
 一方、森は外務次官に対満蒙政策において自らの考えと近い吉田茂を迎え、外務省で一定の影響力を振るい始めます。ただ、党内での力は逆に低下しており、政策決定に対する森の影響力が高まったわけではありませんでした。
 総選挙でも幣原外交を「軟弱」と攻撃した政友会は、対中国政策において強硬策をとらざるをえない状況になり、それが代2次山東出兵、済南事件へとつながっていきます。そして、田中内閣は張作霖爆殺事件の不手際で退陣へと追い込まれます。


 このように森の対中強硬策は失敗に終わりますが、ここで森の政治生命が尽きたわけではありません。
 この本では宇垣一成を首班とするためのクーデタ計画であった三月事件についても森の関与を示唆しています。ジャーナリストで政治評論家の岩淵辰雄によれば、「森は3月事件の当日に芝公園で政友会の全国大会を開催して、三多摩壮士先頭に立てて議会に雪崩れ込んで、「3月事件の連中」と合流するという計画を立てて」(165p)いたそうです。
 著者は、三月事件についてたんなる陸軍内部の陰謀事件ではなく、大正政変のイメージを重ね合わせた「第三次護憲運動」(168p)のような様相を呈した部分もあったとしています。
 この三月事件について述べた部分の第Ⅰ部の最後で著者は次のように書いています。

 昭和恐慌と満州問題に象徴される政治的閉鎖性を打破しようにも、与党絶対優位の当時の選挙制度では選挙による政権交代は望み薄であった。したがって、現状打破をめざすさまざまな政治勢力は「政変」の匂いを嗅ぎつけるや否や、それに一斉に群がり、運動それ自体を変質・迷走させていった。「現状打破」の中身は、政党政治の否定から「憲政の常道」まで幅広い政治的選択肢を含んでいた。後の協力内閣運動が軍事クーデタの色彩を帯びなかったのは、十月事件が発覚して桜会関係者の多くが検束されていたからだろう(168p)


 このように「陰謀好きの膨張主義者」という負のイメージの強い森ですが、スノーイギリス駐日大使は「森は野心家で策謀を好み、非社交的だが、中国における日英協調を高唱していると、警戒しながらも好意的評価を下して」(364p)います。
 実際、満州事変においては関東軍の独走を阻止しなければならないと考えており、「満蒙委任統治」を考えていた吉田茂と近い路線で動いていました。「後年、松岡洋右ら政友会の強硬派が満州国承認決議案を議会に提出しようとした時、「勢に乗じて事を決せむとする軽挙」を党内で押しとどめようとしたのは、河上哲太によれば「森恪」だけであった」(225p)とのことですし、森には国際協調主義者としての一面もあったのです。
 

 しかし、森の満州事変の収拾プランは犬養毅首相とは違うものであり、政友会内部での鈴木ー森ラインと犬養の対立もあって犬養内閣の対中外交はうまく回らず、日本は国際的孤立を深めていきます。森の最期についてこの本では次のように述べています。

 吉田は森恪と連携して(満州国)承認引き延ばしを画策していいた。だが、内田康哉外相に対する森の反対質問は、かえって内田の「焦土演説」という思いも寄らぬ反応を引き出すことになった(八月)。その策謀好きな性格が禍して、森はまたもや自らの意図とは異なる政治的結末に直面しなければならなかったのである。彼が憂悶のうちに世を去ったのは、この年の十二月のことであった。(263p)

 この本が、例えば同じ満洲事変前後の陸軍の動きを追った川田稔『昭和陸軍の軌跡』『昭和陸軍全史1』の著作と大きく異なる点は、永田鉄山の描き方、特に永田と一夕会の他のメンバーとの関係です。川田稔の研究では一夕会を「長州閥(宇垣閥)の打倒」、「満蒙問題の解決」を目指す一枚岩の集団として描き出していますが、この本では永田と石原莞爾板垣征四郎といった関東軍の一夕会メンバーは別の原理で動いています。


 永田というとルーデンドルフに感化されて総力戦体制の構築を目指し、そのために華北分離工作を積極的に進めていたというふうに見られていますが、この本では近年の研究を紹介しつつ、それとは違った永田像を提出しています。

 ところが、挙国一致内閣期の政治過程分析が進むにつれて、永田の柔軟な政治姿勢を再評価するべきであるという意見が見られるようになった。特に、永田と高橋是清民政党との政治的連携を指摘した松浦正孝の研究は注目に値する。実際のところ、昭和初期の永田は満蒙領有には懐疑的であり、宇垣陸相の下で「第二次宇垣軍縮」の実務を担っており、蔣介石や張学良に対する融和政策も推進していた。そして、森靖夫の論考によって、20年代前半の永田が軍部大臣文官制の導入をも構想していたという事実が明らかにされた。永田再評価の機は今や熟しきっていると言えよう。(157p)


 満州事変勃発後においても、この本は「白川ー南・金谷ー永田・今村という穏健派」(194p)という形で、永田を満洲事変を抑えに掛かった側の人物と見ており、国内外で一夕会の将校たちが「下剋上」を進めたというような見方とはずいぶん違います。
 実際、一時期、関東軍に歯止めをかけた参謀本部の「臨参委命」は永田の発案であり(201p)、こうした働きかけによる陸軍中央部による自体の収拾は可能かに見えました。
 ところが、幣原外相がアメリカのスティムソン国務長官に「錦州攻撃の意図はないこと」を伝えたことが暴露されてしまったことによって(フォーブス駐日アメリカ大使が機密扱いにすることを失念)、幣原の軍機漏洩、統帥権干犯問題が騒がれ、幣原と南陸相、金谷参謀総長の政治的求心力に致命的な打撃を与えます(214p)。
 ここに南と金谷の連携が崩れ、永田もまた、皇道派との連携に走ることになるのです。
 その後も、永田は国際協調を意識した満州事変の収拾に動きますが、結局、1935年8月に永田は陸軍省内で斬殺されることになるのです。


 以上、田中義一、森恪、永田鉄山という三人についての分析をこの本から拾ってみましたが、それなりのこの時代をかじったことのある人ならば、かなり刺激的なことが書いてあるということがわかるのではないでしょうか。
 分析自体は一次資料を積み上げた地道なものですが、この本はその地道な作業を積み重ねることで、かなり大きな絵を書くことに成功しています。この時代を語る上で非常に重要な1冊であることは間違いないと思います。


政党内閣の崩壊と満州事変―1918~1932 (MINERVA人文・社会科学叢書)
小林 道彦
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