シーダ・スコッチポル『失われた民主主義』

 サブタイトルは「メンバーシップからマネージメントへ」。アメリ政治学会会長なども務めたシーダ・スコッチポルが、トクヴィルの見出したアメリカの結社が20世紀後半にいかに変質していってったのかということを分析した本。
 同時に、同じようなテーマをとり上げたロバート・D・パットナム『孤独なボウリング』への批判ともなっている本です。
 目次は以下の通り。

第1章 ウォレン・ダージンの墓石――アメリカにおける草の根民主主義
第2章 いかにして合衆国は市民共同体となったのか
第3章 結社(ジョイナー)好き、組織者、市民
第4章 メンバーシップからマネージメントへ
第5章 なぜ市民生活は変化したのか
第6章 我々は何を失ったのか
第7章 アメリ市民社会の再構築に向けて

 
 パットナムにかぎらず、アメリカ社会から「人々の繋がり」といった社会的資本が奪われている、あるいは結社の伝統が失われ「草の根民主主義」が死につつある、という声はよく聞こえます。いわゆるコミュタリアンはこうした主張をしています。
 このような診断には著者もある程度同調しています。しかし、その原因を中央集権化された連邦政府の大規模化に求めたり、対策としての「地域コミュニティの復活」に著者は疑問を投げかけます。
 「本当に人々の繋がりが失われたのは連邦政府の大規模化のせいなのか?」、「地方分権や地域コミュニティの復活は民主主義を取り戻す処方箋なのか?」というわけです。


 この「中央政府VS地域」という構図は非常に人気のあるもので、アメリカに限らず、さまざまなところで「地方分権を進めれば民主主義が復活する」というストーリーが語られますが、著者はこのストーリーをアメリカの歴史を紐解くことで否定します。


 トクヴィルが観察したように、アメリカ人は結社好きであり、それがアメリカの民主主義の大きな原動力になっていました。
 この結社は比較的狭い範囲の集まりだと想定されがちですが、実際はそうしたイメージを覆す巨大な結社が活動しました。
 第2章で著者はアメリカの成人人口の1%以上が会員であった結社(男女別の場合はそれぞれ男性、女性の1%以上)を数え上げていますが、その表には58もの結社が登場しています(24-25p)。
 その中には、「全米教員組合」、「米国赤十字」、「米国在郷軍人会」、「米国労働総同盟」(1955以降AFL-CIO)といった名前だけでその内実や規模が納得できるものもありますが、例えば、この巨大結社には「米国ボウリング協会」さらに「女性国際ボウリング協会」も含まれます。そして、「独立オッド・フェローズ結社」、「エルクス慈善保護協会」、「コロンブス騎士団」など、日本人からするとよくわからない結社の名前もあります。
 

 19世紀半ばから20世紀半ばにかけて、例えば「独立オッド・フェローズ結社」のような友愛を目的とする結社が数多く存在し、さらにそれらの組織が全国レベルの本部と各地の支部を形成したのです。
 この中には、「インディアン向上連盟」という名を名乗りながら、本物のインディアンの入会を認めていないような変な組織もあるのですが(30p)、この巨大な友愛組織が階級を超えた「人々の繋がり」をつくりだしていたのです。
 つまり、「草の根」だからといって、それは地域レベルの小さいものではなく、全国レベルものであり、それが地域−州−連邦政府というアメリカの政治制度と噛み合い、民主主義を活性化させていたのです。


 こうした友愛組織は、会員への社会保険の提供という役割も担い、特に19世紀から20世紀の変わり目にかけての時期は、その社会保険の提供によって会員を増やしていくのですが、そうした組織は比較的すぐに体調していきます。そして、そうした実利的な目的を超えてさまざまな組織が成長していくことになります。


 このような組織は市民的スキルを鍛え、人々にリーダーシップを発揮する機会を与えました。
 こうした組織は人々の繋がりをつくりだすだけでなく、さまざまな公的問題を議論する場となり、積極的な市民性を助長しました。あまり評判の良くない禁酒法も、「婦人キリスト教禁酒同盟」などの組織力があってこそ日の目を見ました。
 

 ところが、こうした巨大な結社は1960年代に一気に凋落していきます。
 これらの友愛的な結社の多くは男女別の会員制であったり、黒人をメンバーに迎えなかったりと、60〜70年代に育った若者にとってあまりに古臭いものでした。彼らは公民権運動や環境問題など、より具体的な政策を実現させるための運動に参加し、特定の政策を実現させるためのアドボカシー・グループが友愛的な結社に取って代わっていくことになります。
 これらの団体はワシントンでのロビー活動に力を入れ、その運営は一部の専門家によって担われました。彼らは会員数を増やすよりは、企業や富裕層から寄付金を集め、そのお金を使って世論を盛り上げ、自分たちの望む政策を実現させようとしたのです。
 こうしたグループの多くは新設されたものでしたが、例えば、全米ライフル協会はそれまで射撃の名手のネットワークだったものが、この時期に銃規制法案に激しく反対する共和党よりのアドボカシー・グループへとその中身を変えています(134p)。


 このアメリカ国民の「結社離れ」は、第5章における著者の分析によると高学歴層ほど顕著です。
 これは先ほど述べたように、友愛的な結社が高学歴層の「リベラルな考え」に適合しなかったという面が大きいのですが、他にも著者は女性の高学歴化と社会進出によって、女性が結社の運営に時間を避けなくなったといった要因などをあげています。
 また、「最近では、かつて実業家エリートと不仲であった知識人エリートとの間に、一種の文化的和解が生まれており、もうけ主義と私的自己実現、社会的寛容、さらには個人主義的な文化的急進主義の強調の結合が進んでいる」(179p)というこの本で紹介されているデイビッド・ブルックスの指摘も興味深いと思います。


 こうした動きを著者のスコッチポルはどう見ているのか?
 第6章のタイトルが「我々は何を失ったのか」となっているように、スコッチポルはこの動きを問題視しています。
 アドボカシー・グループのメンバーや支援者は富裕層に偏っており、かつての結社に見られた階級横断的な動きは見られません。また、ボランティア活動はさかんになっていますが、その多くは一回きりの営みであり、市民性を育むものとしては不十分だといいます。
 さらに、スコッチポルは、現在の民間財団などが行っている社会的な活動を次のように批判しています。

 (以前の結社との)違いは、今日の地域を越えた機構は、説明責任を負わないし、リーダーは選挙で選ばれない点にある。プロのエキスパート、管理者として財団関係者は、彼らが監督する団体内部からその仕事ぶりによって、現在の地位に就くことはまれだ。また、彼らが配る金も、会員の会費ではなく、寄付に伴う所得税の減税、すなわち国民の監視、さらには論点への十分な理解さえ伴っていない、いわば全国民からの間接的な補助金を受け取る富裕階級のドナーから出ているのだ(197p)


 この本来国庫に入るべき金が民間の財団に寄付として流れ、そしてその財団が本来政府が行うべき社会福祉活動を行うという状況は、確かに問題だと感じます。今まで寄付についてはそれほど深く考えていませんでしたが、このようなはたらきがあるということは頭に入れておくべきことでしょう。
 さらに、寄付に頼る団体が自らの存在をアピールするためにより極端な主張に走りやすく、違う立場の団体と連携しようとはしません。「論争を求めるメディアと共利共生のアドボカシー・グループの世界は、政治的スペクトラムの中間的立場も、あるいは妥協の可能性を探し求めそうでもない」(202p)のです。


 このように現在のアメリカ政治と社会について鋭い考察を行っている本です。第7章で示されている処方箋に関しては物足りない面がありますが、現状を知る上では非常に有益な本と言えるでしょう。
 また、問題設定や批判対象が明確で、用語などにわかりにくい面があっても、著者のやりたいこと自体は非常にわかりやすいです。その点も、この本の良い所だと思います。


失われた民主主義―メンバーシップからマネージメントへ
シーダ・スコッチポル 河田 潤一
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