権丈善一『ちょっと気になる社会保障』

 2009年に民主党に政権を獲らせた一つの大きな要因が「年金問題」でした。「消えた年金」「年金未加入問題」「無年金者の増加」「年金だけでは暮らせない!」「年金は破綻する!」といった声がマスコミに度々登場し、それが「ミスター年金」こと長妻昭議員の活躍などと相まって、民主党への期待を押し上げました。


 その後、民主党政権普天間問題や消費税の増税をめぐる迷走、震災復興などの問題で失速していくわけですが、肝心の年金改革に関しても、ほぼまったく進まずに終わってしまいました。
 この要因としては、次のものがあげられると思います。


 1、民主党(長妻厚労大臣)が悪い
 2、時間がなかった
 3、そもそも今の年金制度は言われるほど悪く無い


 民主党支持者は「2」を、アンチ民主党の人は「1」をあげるでしょうが、実は「3」こそが真実なのではないかという推測も成り立ちます。事実、長妻大臣以降の民主党政権下の厚労相の年金改革の声のトーンはだんだん落ちていったような記憶があります。


 そんな「3」の声を支持するのがこの本と言えるでしょう。
 著者の政府の社会保障審議会の委員なども長年勤めてきた人物で、現行の社会保障制度そのものに影響を与えてきた人物でもあります。
 経済学者の鈴木亘などが年金制度をはじめとするドラスティックな改革を唱えているに対し、この本はそうした改革が荒唐無稽であり、現在の日本の社会保障制度がベストからは程遠いにせよ、それなりの合理性と持続可能性を持つものだと主張しています。
 口調へ結構辛辣なものがありますが、世間に流布する誤解を解いていくような形で書かれているため読みやすいと思いますし(ただ、著者が作成する図に関してはわかりにくいものもある)、やや専門的な部分については巻末の「知識補給」コーナーにまとめられています。


 この本でまず強調されるのは、「Output is central」(生産物が重要)という考えです。
 高齢者は何のために年金が必要なのか? それは、食料や衣料、医療や介護のサービスといった生産物を生活(消費)をするためです。
 そのための年金の制度設計としては二つのものが考えれます。1つは「現在の生産物を蓄える」で、2つ目は「将来の生産物に対する請求権を設定する」です。前者が積立方式、後者が賦課方式と言っていいでしょう(18-19p)。
 

 現在の生産物、例えば食料などは20年、30年と蓄えておくことは出来ません。ただ、お金であれば蓄えることが出来ます。ですから、各人がお金を積み立てることで少子高齢化も乗り切れそうな気がします。
 しかし、高齢者の目的はたんに現金を受け取ることではなく、生産物の分配を受けることです。少子高齢化で生産全体が減少すれば、やはり高齢者に分配される生産物は減るのです。


 ですから、積立方式では少子高齢化の影響を受けないというのは間違いだと著者は言います。
 また、積立方式の場合、インフレになれば購入できる生産物は減ってしまいます。
 こうした面から、著者は少子高齢化の影響を受けるのは積立方式も賦課方式も同じで、高齢者の棒品機能が高い点で賦課方式が優れているといいます。
 資産を海外で積み立てた場合はどうなるんだろう? 疑問は浮かびましたが、積立方式への移行が少子高齢化時代に対する万能薬ではないというのは著者の指摘するとおりでしょう。


 次のポイントは、「社会保険」という方式についてです。
 社会保険制度においては保険料の納付が給付を受ける前提となります。ここからいわゆる「無年金者」の問題も起きてきます。
 これに対して、民主党政権は「最低保障年金」の制度を打ち出し、所得がゼロの人でも将来、月7万円の年金が受け取れる制度を構想しました。しかし、この本の「知識補給」コーナーの「保険方式と税方式 〜 最低額が保障されない民主党最低保障年金?」に書かれているように、この制度は結局、所得のない人は0円の保険料を納付するという保険方式の変形版のようなものに落ち着いていったといいます。
 

 税方式で行われる社会保障としては生活保護があります。現在、生活保護の支給費よりも国民年金の支給額のほうが低いことが問題になっていますが、生活保護にはミーンズテスト(資力調査)が伴っており、受給者はある種のスティグマを背負うような形になっています。
 一方、社会保険の給付にはミーンズテストは必要ではなく、受給者がスティグマのようなものを感じることはありません。社会保険の給付は、それまでの拠出への対価であり、権利なのです。


 また保険というのはリスクに対処する機能があります。そして年金もまた年金保険という保険の一種です。
 では、年金はどのようなリスクに対処しているかというと大きく言って2つあります。


 1つ目は「長生きリスク」への対処です。例えば、平均寿命が80歳だとして、すべての人がその年齢で死亡するのであれば年金はいらないかもしれません。人々は死ぬまでに必要となる生活費を計算して、定年までその金額を貯蓄すればいいからです(後述するようにそう単純なものでもないのですが)。
 しかし、人は何歳まで生きるかわかりません。80歳で死ぬとおもっていた人が100歳まで生きるかもしれないのです(年金を意識するようになる年齢、例えば50歳とか60歳の平均余命は平均寿命よりも長いという問題もある(74ー75p))。そんな「長生きリスク」をカバーしてくれるのが年金です。


 2つ目のリスクは経済環境の変化です。近年、日本経済はデフレ傾向にあるためにインフレによって貯蓄が目減りするリスクというものはあまり意識されませんが、本来、これはかなり気にしておくべきリスクです(例えば、今の日銀の2%のインフレ目標でも、35年で物価は2倍程度になる)。
 「年金はいくらもらえるのか?」というのはよくとり上げられる話題で、「15万くらいはないと厳しい」という言い方がされますが、30年後の15万円が今の15万円の価値と同じとは限りません。物価水準によっては25万あっても生活できないということは十分に考えられます。
 そういったインフレを始めとする経済変動のリスクをカバーしているのが年金保険、とくに賦課方式のものなのです。
 このあたりについて著者は「年金が実質価値を保証しようとしていることを説明することの難しさ」というタイトルの第8章などで説明しようとしています。


 このような認識の上で、著者は2004年から日本の年金に導入された「マクロ経済スライド」はすでに年金を受給している人たちの給付を引き下げることを可能にするメカニズムが内蔵されている点から「他国がうらやむ制度」(168p)だとし、基本的に現在の日本の年金制度はそれなりに安定性があり、優れたものだと主張しています。


 もちろん、現状維持でいいわけではなく、改革のオプションとして「マクロ経済スライドの仕組みの見直し」(デフレ下でもフル適用する)、「被保険者の更なる適用拡大」(非正規雇用者の加入拡大)、「保険料拠出期間と受給開始年齢の選択制」をあげています(152p)。ちなみに保険料拠出期間については現行の40年を45年、受給開始年齢については70歳からとすると、1.5倍近い給付水準を達成できるとしています(202p)。
 しかし、今必要なのは積立方式へのドラスティックな移行などではなく、既存のシステムの修正だというのが著者の基本的な主張になります。


 このようになかなか説得的な議論が展開されていますが、個人的には、「税ではなく社会保険中心だと所得の再分配機能が十分にはたらかないのではないか?」という疑問は残りました。現在の日本では、低所得者社会保険料の負担は限界に近づいていると思います。
 また、基礎年金は生活保護のように生活そのものを保障するものではなく、ある一定の基板を与えるための一種のブースターなのだという議論をしています(172ー174p)。これもある程度は納得できるのですが、それには、もう少し生活保護の受給要件や支給の仕方を見なおして、「年金で足りない数万円を生活保護で補う」というような運用が積極的に行われるようにならなければならないと思います。


 あと、この本は、社会保障の数字を見る上でのコツのようなものも教えてくれる本でもあります。
 例えば、「1970年には一人の高齢者を8.5人で支えていたが、2050年には1.2人で支えなければならない!」といった数字はショックを与えますが、「就業者1人が支える非就業者の人数」という形で見てみると、1970年の1.04人が2050年に1.10人に増えるだけです。また、社会保障では名目の数字ではなく、対GDP比などを見ることが大切です。そうしないと経済成長の影響などが盛り込めなくなってしまいます。


 ここでは年金の話題しかあげませんでしたが、医療や介護についてもある程度の説明はしてありますし、現在の社会保障制度を考える上で必要な知識を授けてくれる本と言えるでしょう。
 著者の考えにすべて賛同するわけではありませんが、この本を読むと、社会保障制度においてもやはり「魔法の杖」のようなものはないということがわかるのではないでしょうか。


ちょっと気になる社会保障
権丈 善一
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