ダグラス・C・ノース『ダグラス・ノース 制度原論』

 ノーベル経済学賞受賞者で、去年の11月に95歳で亡くなったダグラス・C・ノースが2005年に出した本の翻訳。原題は"Understanding the Process of Economic Change"、『経済変化の過程を理解する』になります。
 ノースの研究の集大成と言っていい本なのかもしれません。

 目次は以下の通り。

1章 経済変化の過程の概略

1部 経済変化の理解に関する諸問題
2章 非エルゴード的世界における不確実性
3章 信念体系、文化、認知科学
4章 意識と人間の志向性
5章 人間が構築する足場
6章 ここまでの棚卸し

2部 その先にあるもの
7章 進化する人為的環境
8章 秩序と無秩序の原因
9章 正しい理解、誤った理解
10章 西洋世界の勃興
11章 ソビエト連邦の盛衰
12章 経済成果の改善
13章 私たちはどこへ向かうのか

 ノースといえばロナルド・コースやオリバー・ウィリアムソンとともに「制度派」の経済学者として有名ですが、この本の前半(第2章から第4章)では、その制度を生み出す認知や信念についてまず言及しています。
 

 経済学では、「経済の根底にあるファンダメンタルが定常的で、したがって時間を持たないような経済」(24p)であるエルゴート的経済が想定されがちですが(エルゴート的とは、過去の観察から計算された平均が、将来の結果の時間的平均と持続的に異なりえないということを意味する(28p))、現実の世界は非エルゴート的であり、人は常に不確実性にさらされています。


 こうした不確実性に枠組みを与え、人々の認知を安定化させるのが制度の役割なのですが、「制度とは何なのか?」、「制度が変われば人々の行動も変わるのか?」、「制度は変えられるのか?」と考えていくと、この制度というものがなかなか難しいものであることもわかります(この制度を論じる難しさについては青木昌彦『青木昌彦の経済学入門』ちくま新書)所収の青木昌彦山形浩生の対談を読むといいです)。
 

 この本では、そうした問題を認知や信念といったレベルから考えていこうとしているのですが、この本で行われている認知や信念についての議論についてはあまりピンときませんでした。
 もちろん、自分の知識が足りないせいもありますが、そんなに明解な見取り図が提示されているわけでもないので、ピンと来ない人は第5章から読んでもいいんじゃないかと思います。


 第5章で、制度変化について次の5つの命題をあげています。

命題1 希少性という経済状況、すなわち競争状況における制度と組織の不断の相互作用が制度変化の鍵である。
命題2 競争は、存続するために技能と知識に不断に投資することを組織に対して強制する。諸個人と彼らの組織が獲得する技能と知識は、機会に関して進化する認識を形づくり、したがって増分的に制度を変更する選択を形づくるであろう。
命題3 制度的枠組みは、最大利得を持つと認識されているような種類の技能と知識へと方向づけるインセンティブをもたらす。
命題4 認識はプレーヤーたちの心的構築物から派生する。
命題5 範囲の経済、補完性、制度配置のネットワーク外部性は、制度変化をほとんど増分的かつ経路依存的なものにする。(91-92p)

 制度は「つくられたもの」というイメージがありますが、その「つくられた」制度のもとで人々は予想し行動しているわけです。そして制度が人々にインセンティブをもたらしているのです。
 ですから、制度を変えるというのは、人々の予想や行動、インセンティブ構造を変えることであり、当然ながら抵抗に会います。
 

すなわち、蓄積された諸制度が、その制度の持続に生存を依存している組織を発生させることになり、したがってその組織は存続の脅威となるいかなる変更をも阻止するための資源を充てるだろうということである。経路依存性に関する非常に多くのことはこのような文脈において理解するのが有用である。(81p)

 といったことも起こるわけです。


 制度変化をもたらす主体として期待されるのは政府ですが、著者は政治について理解するのは難しいと認めています。「私たちは、経済の市場がどのように機能するかを知っているのと同じ意味では、「何が政治体制を機能させるのか」に関して明確な理解をまったく持ち合わせていない」(105p)のです。
 一般的に民主主義のほうが市場にとって良さそうではありますが、シンガポールのように権威体制のもとで成長している国も存在しますし、先進国の政治制度を途上国に持ち込んでも機能するとは限りません。

 
 第2部では、実際の歴史のなかでどのように制度が変化し経済が成長してきたかが分析されています。
 キーになるのは「非匿名的交換から匿名的交換への変化」、「専門化と分業」、「それを支えるインセンティブ構造」、「よく機能する政府」といったものになります。


 「非匿名的交換から匿名的交換への変化」に関しては、グライフの『比較歴史制度分析』の中のジェノヴァ商人とマグリブ商人の対比などの例から説明されていますが、意外と説明に窮している感があるのが「よく機能する政府」のところ。
  

 良く機能する市場は政府を必要とするが、政府自体が良く機能する市場を必要としているわけではない。政府が市場を食い物にすることを制限するための制度が存在しなければならないのである。(129-130p)

 
 とあるように、市場は政府を必要としますが、政府は常に市場を必要とする訳ではありません。持続可能性はともかくとして略奪国家のようなものもありえるわけです。
 結局、ノースも「非公式な規範」といったものに頼った説明をしており、合衆国とラテンアメリカのその後の経済発展の違いなども、植民地時代に培われた非公式な規範の有無で説明しようとしています。
 このあたりはなかなか難しいですね。


 その他では、11章の「ソビエト連邦の盛衰」が興味深いです。
 ゴルバチョフペレストロイカによって立て直そうとしたソ連経済があっという間に崩壊してしまいます。「ソ連経済は改革しようとしてもすでに手遅れの状態だった」という印象がありましたが、この本によると、経営者が事実上の財産権を手に入れ、賃金・価格・生産目標の設定に関して強すぎる裁量をもってしまったことが、ソ連経済を崩壊させた原因だといいます。経営者たちは大規模国有企業から栄養を吸い続け、「経営者としての危険を冒さずに、また完全な所有に伴う債務も負わずに、財産をもとに利益を手にすることができた」(235p)のです。
 

 やや、本の構成がしっかりしていない印象もあって、とっちらかった感じもあるのですが、「制度」を論じるということが魅力的であると同時に難しいということを教えてくれる本でもあります。
 「制度」を考える入り口としては前掲の青木昌彦『青木昌彦の経済学入門』ちくま新書)、ノースの本を最初に読むなら『経済史の構造と変化』がいいかなとは思いますが、この本も読み応えのある本だと思います。


ダグラス・ノース 制度原論
ダグラス・C・ノース 瀧澤 弘和
4492314741


日経BPクラシックス 経済史の構造と変化
ダグラス・C・ノース
4822249441


青木昌彦の経済学入門: 制度論の地平を拡げる (ちくま新書)
青木 昌彦
4480067531