池内恵『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』

 『イスラーム国の衝撃』(文春新書)の池内恵の本。新潮選書になりますが、タイトルの頭に【中東大混迷を解く】とあって、著者はブックレットシリーズの1冊としてこの本を位置づけているようです。
 目次は以下の通り。

第1章 サイクス=ピコ協定とは何だったのか
第2章 露土戦争と東方問題の時代
第3章 クルドの夢はなるか?
第4章 再び難民の世紀へ
第5章 アラビアのロレンスと現代


 タイトルを聞くと、「百年前に結ばれたサイクス=ピコ協定こそが現在の中東の混乱の原因であり、欧米列強こそが諸悪の根源なのだ!」と主張している本かと思う人もいるかもしれませんが、著者は第1章でこのような形で使われる「サイクス=ピコ協定」という言葉をマジック・ワードだとして批判しています。
 著者は例えとして、「北朝鮮の核ミサイル問題の原因は日本の植民地支配が原因だ」という言説の不毛さを引き合いに出しています(20-21p)。
 もちろん、日本の植民地支配がなければ、朝鮮半島の分断はなく北朝鮮の核開発もなかった可能性はあります。しかし、だからといって「日本が責任をもって朝鮮半島情勢に介入せよ」という話にはならないでしょう。「サイクス=ピコ協定が悪い」という主張は、現実の中東問題を解決する道筋を示すことはありません。


 そもそも、オスマン帝国を英仏露で分割しようとした1916年のサイクス=ピコ協定はそのまま実現したわけではありません。1920年にはセーヴル条約、1923年のローザンヌ条約を経て中東は今のような形に落ち着いています。
 ご存知のように第一次世界大戦中にロシアは革命によって崩壊します。これによって英仏露による分割というサイクス=ピコ協定の当初の想定は崩れます。また、英仏もアナトリアまで軍を派遣する余力はなく、アナトリにも一定の数が住んでいるギリシア人やアルメニア人の力を利用してアナトリアを分割しようとしました。
 しかし、この分割に対して立ち上がったのがトルコ建国の父ムスタファ・ケマルです。ケマル等はギリシア軍とアルメニア軍をアナトリアから放逐し、現在のトルコの領土をほぼ確定させました。それを受けて結ばれたのがローザンヌ条約です。
 結局、大国による線引(サイクス=ピコ協定)はうまくいかず、各民族によるモザイク的な支配(セーヴル条約)もうまくいかず、現在の形(ローザンヌ条約)に落ち着いているのです。


 それを踏まえた上で、著者は現在の中東の問題をかつての「東方問題」になぞらえています。
 17世紀末以降、オスマン帝国は衰え始め、代わってロシアがオスマン帝国の支配地域を脅かしはじめます。このロシアの南下に対して、それに対抗できない「弱すぎるオスマン帝国」が問題となりました。


 もちろん、現在のトルコは当時のオスマン帝国のような下り坂にいる国家ではありません。ただし、地政学的なロシアとトルコの関係は変わっておらず、ロシアが南下しようとすればトルコとぶつかります。
 2015年11月のトルコによるロシア空軍機撃墜事件は、そのトルコとロシアの関係を改めて思い起こさせる事件でした。2014年のロシアによるクリミア併合も、見方によってはロシアの「南下政策」ととることのできるものですし、ロシアのアサド政権への肩入れもトルコにとっては面白くないものです。
 

 さらに、この「東方問題の再来」というのはトルコとロシアの関係を指すだけではありません。「瀕死の病人」などと言われつつも勢力均衡のために列強から存続が望まれたオスマン帝国と、混乱する中東とヨーロッパの間の防波堤としての役割を欧米から期待される現在の関係が重なるというのです。
 これについて著者は次のように述べています。

 帝国の利益追求を剥き出しにして軍事・外交的な介入を繰り返しつつ、少数民族の保護といった高邁な理念を掲げた介入を平行して繰り出した、かつての西欧列強と、トルコに難民への処置の「下請け」を依頼しつつ、人権理念を掲げてトルコの加盟交渉を果てしなく引き延ばすEUは、外見上の装いは変わったものの、実は本質的に根深い連続性があるのではないか。トルコと西欧諸国が根底で抱える相互不信が、西欧の矛盾した政策によって表面化し、それがトルコの内政と外交をさらなる漂流へと押し流した時に、中東のこれまでの秩序を支えていた重要な礎石が失われることになる。そのような事態がこないことを願うばかりである。(69p)


 このように簡単に既存の秩序を崩すわけにはいかないのですが、現在の中東の秩序の中で浮き上がった存在になってしまっているのがクルド人。トルコ、シリア、イラク、イランなどにまたがって暮らす民族ですが、いずれの国でも少数民族であり、独立や自治が模索されています。
 湾岸戦争時にイラクフセイン政権に対して蜂起したクルド人たちは弾圧を受けますが、国際社会が飛行禁止区域を設定したことによって、自治への道がひらけました。そして今、イスラーム国を抑えこむための武装勢力としてシリアのクルド人勢力が欧米から支援されています。シリアのクルド人としてはここから自治を確立したいところですが、国内のクルド人を抑えこんできたトルコにとってこれは認められないものです。
 2016年2月のアメリカのケリー国務長官とロシアのラブロフ外相の合意において、「クルド人自治や独立を認めているのではないか?」という疑問がアラブ世界では高まっているとのことですが(134ー135p)、このクルド人の問題はシリアの和平が成立したとしても問題として残り続けるものでしょう。


 この他、第4章では現在の難民問題をオスマン帝国解体時における民族の移動と重ねあわせて論じ、また第5章では『アラビアのロレンス』を振り返りながら、当時の中東情勢と現在に通じる問題を分析しています。


 先ほどあげたケリー国務長官とラブロフ外相の合意に見られるように、今後シリア情勢において大国による和平の枠組みができるかもしれません。それは新しいサイクス=ピコ協定となる可能性もあります。
 ただし、著者は百年前と現在の違いとして、トルコやサウジアラビア、イランといった地域の大国の存在をあげます。大国が勝手に地図上に線を引けた時代は終わっており、いかなる枠組みも地域の大国の支持がなければ実行は難しいのです。そして、これらの大国、特にトルコが混乱に陥れば、その影響は西欧にも及ぶことになるでしょう。難民問題によるEUの混乱はそれを示唆しています。
 

 このように複雑な中東情勢とその展望をこの本では140ページほどにまとめています。もちろん、中東情勢全般をとり上げているわけではないですが、現在の中等の問題を読み解く一つの切り口を提供してくれています。そしてその切り口は鋭く、新聞の記事を追うだけでは見えてこない「歴史的な大きな絵」のようなものを教えてくれるものになっています。


【中東大混迷を解く】 サイクス=ピコ協定 百年の呪縛 (新潮選書)
池内 恵
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