板橋拓己『黒いヨーロッパ』

 副題は「ドイツにおけるキリスト教保守派の「西洋(アーベントラント)」主義、1925~1965年」。副題を聞いてますます本の内容がわからなくなったという人もいるかもしれません。また、副題からものすごく小さな問題を論じているという印象を受ける人もいるかもしれません。
 しかし、実はこの本、ヨーロッパの統合史に一つの補助線を引き、現在のEUを考える上でも重要な知見を教えてくれる本なのです。


 目次は以下の通り。

序 章
第1章 キリスト教民主主義の国際ネットワークとヨーロッパ統合
第2章 第一次世界大戦後の「西洋」概念の政治化―雑誌『アーベントラント』とヘルマン・プラッツを中心に
第3章 「アーベントラント」とナチズム
第4章 第二次世界大戦後のアーベントラント運動


 アーベントラント(Abendland)は日本語では「西洋」と訳されることが多い言葉で、第一次世界大戦後に書かれたシュペングラーの有名な『西洋の没落』の原題が「Der Untergang des Abendlandes」です。
 最近、ドイツでは難民の流入とともにイスラム系移民に反対する団体「ペギーダ」が勢力を伸ばしていますが、そのペギーダ(Pegida)という名称は、Patriotische Europäer gegen die Iskamisierung des Abendlandes(アーベントラントのイスラム化に反対する愛国的ヨーロッパ人)の頭文字からとられています(211p)。
 日本だと「西洋」という言葉は以前よりも使われなくなってきていると感じますが、著者によるとドイツでは「アーベントラント」という言葉がイスラム系移民に対する排外的な言説に頻繁に登場するそうです(211p)。
 そして、この言葉は戦後の西ドイツをヨーロッパ統合へと進めたキーとなる言葉でもあるのです。


 また、タイトルの「黒いヨーロッパ」の「黒」はカトリックを表す色です(聖職者の法衣の色に由来)。
 初期のヨーロッパ統合の中心となったのは大国はフランス・西ドイツ・イタリアですが、フランス外相のロベール・シューマン、西ドイツ首相のアデナウアー、イタリア首相のデ・ガスペリの3人はともにカトリックであり(19p)、そのカトリックが母体となったキリスト教民主主義がヨーロッパ統合の推進勢力となりました。


 この本は、そういったキリスト教民主主義の国際的なネットワークを見ていくとともに、ドイツをヨーロッパ統合へ向かわせる一つの力となった「アーベントラント」という理念とそれを担った人びとを描き出しています。
 そして、やや結論を先取りしていえば、キリスト教民主主義の国際的なネットワークを使いつつ、「アーベントラント」の理念によって西ドイツ国内の保守派をまとめあげていったのがアデナウアーというわけなのです(ちなみにアデナウアーについては著者が『アデナウアー』中公新書)と言う評伝を書いており、こちらも面白いです)。


 まず、第一章ではキリスト教民主主義の国際的なネットワークがとり上げられています。
 ここで改めて感じるのが、キリスト教民主主義勢力の共産主義への警戒心です。もちろん、カトリックが宗教を敵視する共産主義を警戒するのは当然であり、それがローマ教皇ピウス12世をヒトラームッソリーニに接近させるわけですが(このあたりについては松本佐保『バチカン近現代史』中公新書)に詳しい)、この本を読むとその警戒心が第2次大戦後のヨーロッパ政治を動かす一つの力になっていたことがわかります。
 1948年12月のキリスト教民主主義者の集まるジュネーブ・サークルで、アデナウアーは、来る西ドイツの第一回総選挙で、「もしドイツ社会民主党SPD)が勝利した場合、「ドイツ議会はイギリスの影響下に置かれ」、結果的に将来のヨーロッパの組織でも「労働党のイギリスと社会主義の西ドイツが、キリスト教民主主義勢力を凌ぐことになるだろう」」と述べ、フランスの協力を得ようとしています(59p)。
 また、フランスの首相や外相を務めたビドーは、ソ連の脅威を強調し、「わたしたちは新しいイスラムの前に立っています」(62p)と発言しています。共産主義は東方の新しい異教であり、その異教からヨーロッパを守ることがキリスト教民主主義の重要な役割だったのです。


 こうした独仏接近を後押ししたもう一つの理念がアーベントラントです。
 この本の第2章と第3章では、戦間期ナチス時代においてアーベントラントという理念がどのように広まり、展開していったかが述べられています。
 1925年にドイツでは『アーベントラント』という月刊誌が創刊され、その雑誌を中心にアーベントラント運動が展開していきます。その特徴は反近代主義であり、また、ライン中心主義であり、新フランス的な傾向でした。
 一方、その後政権を握ったナチスはアーベントラントという言葉よりも「ライヒ」(Reich)という言葉を使いました。ナチスがアーベントラントという言葉を使った例もありますが、アーベントラントはナチスに反対する勢力によっても使われており、比較的色のつかなかった言葉でした。このことが第2次世界大戦後のアーベントラント運動の復活を可能にします。


 この本では戦後のアーベントラント運動を雑誌『ノイエス・アーベントラント』を中心に見ていきます。
 1946年に創刊された『ノイエス・アーベントラント』は、当初、文化的・哲学的・神学的・歴史学的問題を中心に扱っていましたが、徐々に政治化・右傾化していきます。
 特に1951年から責任編集者となったゲルハルト・クロルは、反共産主義色の強い「アーベントラント・アクション」という運動を立ち上げようとし、さらに「アーベントラント・アカデミー」という組織を作りました。そして、この「アーベントラント・アカデミー」にはそうそうたるメンバーが集まります。


 アーベントラント主義者は、ヨーロッパ統合について「「アーベントラント」あるいは「ヨーロッパ」の「復興」「再生」であることを強調し」(147ー148p)、19世紀以来のナショナリズムの勃興をアーベントラントの歴史にとって「逸脱」と見ました。
 クロルは大衆民主主義を否定し、「権威主義的に構成された職能身分制国家」(150p)を理想としており、現在のEUとはまったく違う姿を思い浮かべていますが、ヨーロッパの統合を志向していました。
 また、アーベントラント主義者の多くは「反共」「反米」で、そこからも統合ヨーロッパが志向されました(156ー160p)。


 こうしたアーベントラント主義者をある意味でたくみに利用したのがアデナウアーでした。
 アデナウアーは「ドイツの再統一」を棚上げして、西側と世界と密接な関係を築く「西側結合」路線をとるのですが、それを正当化するときに使われた言葉の一つが「アーベントラント」です(170p)。彼はキリスト教的アーベントラントを救うにはヨーロッパ統合しかないと訴え、反共的な立場を明確にしました。
 しかし、アデナウアーとアーベントラント主義者の考えが完全に重なっていたわけではありません。「プロイセン的伝統」に対する批判、反共主義、独仏和解の重視などは共通していましたが、アデナウアーは反米ではなく、中欧やドナウ圏への郷愁といったものもありませんでした(177ー178p)。アデナウアーは「アーベントラント」という言葉を頻繁に使いながらも、アーベントラント運動とはやや距離を取りました。


 そして、盛り上がっていたアーベントラント運動は、1955年の「レヒフェルトの戦い千年祭」でアーベントラント・アカデミーの理事にして外相に就任したばかりであったハインリヒ・フォン・ブレンターノが「東方」の「新しい異教徒」から「アーベントラント」を守らねばという、行き過ぎた演説をしたことをきっかけに急速にしぼんでいきます。
 ちょうど現在、「日本会議」が急速に「危険な組織である」と思われ始めたように(実際のところはわかりませんけど)、「アーベントラント・アカデミー」も「保守的カトリシズムと君主主義とライヒ神話と十字軍ファンタジーを結びつけたもの」(192p)といった表現で批判されるようになるのです。
 アーベントラント・アカデミーからは人が離れ始め、1960年代になると政治化たちも「アーベントラント」という言葉を使わなくなっていきます。「アーベントラント」という言葉は魅力を失ったのです。


 この本の叙述は基本的にここまでで、この本の「おわりに」では、アデナウアーの「西側結合」という革新的な外交路線と「アーベントラント」という概念の関わりなどについて検討しています。
 というわけで、基本的には限定された時代を対象にした分析なのですが、最初に紹介したようにの「アーベントラント」という言葉はイスラム系移民に反対する団体「ペギーダ」に使われ、復活の兆しを見せています。また、「非キリスト教」的なものに対する警戒心というのも現在に至るまで生き続けており、「アーベントラント」的な概念はこれからもドイツ、そしてヨーロッパで生き続けるのだと思います。
 そう考えると、意外に長く広い射程を持っている本なのではないかと思います。
 また、先日読んだマーク・マゾワー『暗黒の大陸』と響きあうところもあって(アデナウアーがうまく極右層を取り込んだことなど)、そこも面白かったです。


黒いヨーロッパ――ドイツにおけるキリスト教保守派の「西洋(アーベントラント)」主義、1925~1965年
板橋拓己
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