鈴木亘『経済学者 日本の最貧困地域に挑む』

 社会保障を専門とする経済学者の鈴木亘が、橋下市長のもとで大阪市の特別顧問となり、日本最大の日雇い市場がを抱えホームレスや生活保護受給者が集中する「あいりん地域」の改革にチャレンジした「戦い」の記録。
 タイトルからすると、鈴木亘はあいりん地域を改革するアイディアを練っただけかとも思えますが、本を読んでみると、彼が実際に西成特区構想の推進役として悪戦苦闘した姿が描かれています。
 ですから、この本は「経済」の本というよりも「政治」の本と言うべきかもしれません。問題の分析には経済学の道具が使われていますが、縦割り組織との対決や住民の意思をいかにまとめ上げコンセンサスを得ていくかといった部分はまさに「政治」の部分です。
 というわけで、「経済」に興味のある人にも「政治」に興味がある人にも十分に楽しめる内容になっていると思います。さらに「社会運動」とか「街づくり」に興味がある人にもお薦めできる本です。


 あと、著者が大阪市の特別顧問ということで、「西成特区構想は新自由主義的な地域の破壊であり、著者もそうした人物に違いない!」という偏見をもってしまう方もいるかも知れませんが、著者は大阪大学の学生時代からこの地域に通っており、助教授時代にはフィールド調査も行ったという人物で、この地域にそれなりの知見と人脈のある人物です。
 実際、著者とともにこのプロジェクトに取り組んだメンバーを見れば、この改革がよくわかないままに批判的に使われる単純な「新自由主義的改革」ではないことがわかると思います。


 ただ、著者は大阪市の特別顧問になった経緯はけっこうすごくて、大阪維新の会の浅田均大阪府議会議長からアドバイスを受けたいという話があり、そこで西成特区構想の話題が出て著者が西成にいて知っていると言うと、「鈴木さん!じつは、橋下徹西成区長を兼務したがっているんですが法令上無理らしいので、今度、口調を応募するんですよ。いますぐ学習院大学を辞めて、西成区長になってくれませんか!よろしくお願いします!!」と頼まれたということで(16p)、このへんのノリは維新ならではって気がしました。


 当初、橋下市長らは西成地区に転入してくる子育て世代に対して税の優遇を行い、小中高一貫のスーパーエリート校をつくることで子育て世代を地区に流入させ、地区の活性化を図ろうとしていました。
 しかし、著者は子育て世代を強引に引き込めば、それは今いる人(日雇い労働者など)の排除につながりかねないし、税の優遇を目的にやってくるのは貧困世帯になるとしてその案に反対します。そして、「まず、土壌環境を改善しなくては、その上にどんな木を植えても育たないのだ」(15p)として、地域の内部からの改革を主張するのです。


 しかし、当然ながらこれは「言うは易く行うは難し」です。
 ここから著者は、町内会や日雇い労働者を支援する労働組合やホームレスの支援団体など、さまざまな立場の間で意見集約をはかろうと悪戦苦闘します。
 あいりん地域にある日雇い労働者の寄場や簡易宿泊所は、日雇い労働者たちにとっては必要不可欠なものです。また、それらがあいりん地域に集積していることは、いわゆる「集積のメリット」につながります。一方で、住民からするとそれらは「迷惑施設」といっていいものです。つまり、町内会と日雇い労働者やその支援団体との利害は基本的に対立しているわけです。


 しかも、市の縦割り行政の壁もあります。大阪市ほどの巨大組織となると、局をまたいだ事業を行うには大きな調整コストが必要になりますし、また、あいりん地域のような「厄介な」案件で全面的な責任を負いたくはないという役人の防衛本能もはたらきます。
 さらに大阪には、「市」と「府」の縄張り争い、あるいは責任の押し付け合いの問題も有ります。いわゆる「府市合わせ」ともいわれる問題です。これを乗り越えるのにも多大な調整コストが必要で、そのためにあいりん地域の問題は放置されてきたとも言えるのです。


 この難題を乗り切るために著者が用いたのがボトムアップトップダウンです。
 ボトムアップに関してはあいりん地域の「まちづくり検討会議」というものを開催し、そこに労働者団体の代表や町内会など利害関係者を集め、すべての人に発言させていくような作戦を取ります。さらにその会議を完全に公開することで、「聞いていない」という声を封じつつ、役人たちを押しきれるだけの材料を積み上げていくのです。
 もちろん、そこには「活動家」と呼ばれる妨害行為を行う人などもいて、一筋縄ではいかないのですが、そういった「戦いの記録」もこの本には余すことなく書いてあります。


 一方、役人たちを動かすもう一つの大きな武器がトップダウンです。特にこの時期の大阪における橋下市長と松井知事は大きな存在感をもっており、メールなどで橋下市長に直接連絡を取り合える著者は、ここぞという時にトップダウンを利用します。
 特に、西成地区の取り締まりに本腰を入れない西成警察署を、松井知事→府警本部長のラインから動かし協力させる作戦について書かれている第16章は面白いですね。警察のような上意下達型の組織はトップからの支持であっという間に変わるのです。


 また、特別顧問というイレギュラーな存在の利点というのも興味深かったです。
 縦割り組織では、その組織間の調整というものが必要になりますが、公の会議などでは各部局はなかなか本音を言わず、様子見や責任回避に終始します。これは例えば、太平洋戦争開戦前の陸軍と海軍の会議での様子などをみてもわかります。縦割り組織では、各部局は自分たちの利益を守ると同時に全責任を負わないことに汲々とするのです。
 ここで必要になるのは、各部局の本音を引き出し、全責任を負わせないと約束する者の存在です。著者はこうした存在をミドルマン(仲介者)と呼んでいます。このミドルマンが機能しだすと、今度はミドルマンに情報が集まることになり、情報面から各部局に対して優位な立場に立つことができるのです(368ー373p)。


 この情報を握るいうことは非常に重要で、2年ほどで次の職場へと移っていく役人の人事ローテーションについて、著者は新しい担当に一から説明をやり直さなければならない悪い面もあるが、こちらが情報面で優位に立てる良い面もあったと述べています(294p)。
 地方自治の世界ではびっくりするような多選の首長も珍しくないですが、その理由の一つはこれなんでしょうね。


 この問題についての他の本を読んでいないため、実際にあいりん地域の改革がどの程度うまく行っているのかはわからない面もあるのですが、このように組織の話としても運動の話としても非常に面白い本に仕上がっていると思います。


経済学者 日本の最貧困地域に挑む
鈴木 亘
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