日本の「批評」とは一体何なのか?『ゲンロン4』を読んで

 東浩紀が編集している『ゲンロン4』を一通り読んだ。『ゲンロン』は『1』を読んで、自分には少し「批評」寄りすぎるかな、と思って『2』、『3』は買わなかったのですが、現在の「批評」の位置を探る今号の企画は面白そうだと思って買いました。
 実際、メインとなる共同討議の市川真人+大沢聴+佐々木敦+さやわか+東浩紀「平成批評の諸問題 2001-2016」は面白かったですし、「リベラルは再起動するか」という山口二郎津田大介東浩紀の鼎談も個人的には面白く読めました。
 そして、浅田彰へのロングインタビュー(聞き手・東浩紀)と杉田俊介「ロスジェネの水子だち」、ジョ・ヨンイル「柄谷行人と韓国文学再考」を読んで、なんとも定義し難い日本の「批評」というものの位置づけがクリアーになったのは収穫でした。


 巻頭言の東浩紀「批評という病」を読んでもわかるように、「現代日本の批評Ⅲ」という特集の主人公ともいうべき人物が柄谷行人。「NAM運動」などは批判されていますし、近年の仕事についても特に高い評価が与えられているわけではないのですが、「批評」におけるロールモデルとして柄谷行人の名前は何度もあげられています。
 東浩紀は「批評という病」の中で、柄谷の書いた『探求Ⅰ』や『探求Ⅱ』といった書物は、「批評」とされながら何も批評していないし、かといって柄谷の仕事を「哲学」に分類するのにも反対しています。
 そんな柄谷行人の立ち位置を、韓国という外側から論じることで浮かび上がらせてくれるのが、ジョ・ヨンイル「柄谷行人と韓国文学再考」です。


 この論文は、今回の特集のために書かれたものではなく、著者が閉鎖的な韓国の「文学」や「批評」の世界を批判する文脈の中で書かれたものです。
 この論文の中でジョ・ヨンイルは次のように述べています。

日本近代文学の起源』は韓国の文学研究者にもっとも多く引用されてきた本のひとつです。しかし日本では引用が避けられる本でもあります。広く読まれているにも関わらず、学術論文はもちろん、批評でもこの本についてほとんど言及されません。(212p)

 この理由について、ジョ・ヨンイルは、論理の展開形式があまりに「批評的」である点と、日本文学への徹底的批判である点をあげています。
 確かにアカデミックな世界では柄谷行人は引用しにくいというのはわかります。柄谷は近年、世界史に関する本なども書いていますが、歴史学の論文で柄谷の『世界史の構造』などが引用されることも少ないと思います。「批評」とはアカデミズムとは少し違った世界で展開されているものなのです。


 さらにジョ・ヨンイルは、柄谷の講演文である「移動と批評」からいくつかの興味深い部分を引用しています。まずは柄谷がなぜ文芸批評家になったのかという部分。

 文学批評は、文学作品を論じることですが、私が文学批評をやろうと思ったのは、たんにそのためではありません。文学批評では、対象として文学でないものを論じることができます。たとえば、哲学や宗教学、経済学、歴史学といったものも、文学批評の対象になる。文学批評は何を扱ってもよいのです。(中略)私は欲張りなので、文学批評を選んだのです。(217p)

 さらに文学批評の本質について。

 日本では、戦前から、文学批評が、哲学や社会科学に対抗する知として存在してきました。その場合、つぎの点に留意すべきです。文学批評といっても、小林秀雄がそうであったように、実質的にフランス哲学なのです。(219p)


 ここからわかるのは、「批評」の対象とは無限定で、方法論は実はフランス哲学ということになります。
 確かにフランス哲学は、英米の哲学やドイツの哲学と比べ、自由になんでも論じる傾向があります。また、NHKによく出てくる「知識人」にジャック・アタリがいます。彼の肩書は「経済学者」となっていますが、アタリに経済学のテクニカルな問題について聞くことはなく、彼が聞かれるのはもっと大きくて漠然とした話です。最近では、エマニュエル・トッドも日本ではこの「知識人」枠として重宝されている印象があります。


 ただ、フランスの「知識人」がある程度はアカデミズムに包摂されている(いた)のに対して、日本の「批評」はアカデミズムとは離れた「在野」で発展したものなのかな、という気がします(もちろん、柄谷行人も大学教授になりましたし、蓮實重彦なんで東大の総長だったわけですが)。
 こうしたアカデミズムからの距離を、ジョ・ヨンイルは韓国の現状と比べて望ましいものと見ているわけですが、アカデミズムから離れて活動を行うためには商業主義の要素も必要なわけで、そこが東浩紀が「批評という病」で訴える「観客の必要性」という部分につながっていくのでしょう。


 個人的に柄谷行人に思い入れはないですし、フランス哲学をバックボーンにして社会を「批評」するといった行為もだんだんと厳しくなってきていると思います。アカデミズムというのも言うほど閉鎖的なものではないでしょう(少なくとも日本では。韓国のケースはわかりませんが)。
 ただし、「在野」というよりも、ある程度の「商業主義に乗った知」というものはやはり必要なのではないかと思います。アカデミズムから供給される「知」と、商業主義が完全に分断されている状況はあまりよいものとはいえないでしょう。
 このアカデミズムと商業主義の間を埋めるものが、「批評」なのか、それとも別の何かなのかはわかりませんが、『ゲンロン4』を読んで、とりあえずこんなことを考えさせられました。


ゲンロン4 現代日本の批評III
東 浩紀
4907188196